Monday, November 19, 2007

ある丹波の女性の物語 第18回

遥かな昔、遠い所で第40回

 4年生の頃と思うが、夏休みの後半の夜中から私は40度を越す高熱がつづいた。何人もの医師をかえても熱は下がらず、医師の合議の結果、腎盂炎らしいという事になり、頭とおなかを冷やし、絶対安静の一ヶ月を送った。

その頃は今のように抗生物質の薬品がなく、そうするより療法がなかったのである。窓に西日が射しはじめると、ああ又熱が出るのかと悲しかった。その後京都の病院で、自分の尿から自家ワクチンを作ってもらい、長い間注射に通った。二学期の殆どを休みそれ以後、急激な運動は出来なくなった。

 父は一日中忙しく過ごす人であったが、忙中閑ありと云うのか、若い頃から俳句をたしなみ、句会で選に入り碧梧洞の「槻(つき)(トネリコ)の根に巣立ちして、落ちている」という軸をもらっている。何だか変な句と思うが、前田夕暮さんに師事していた隣の本屋の小父さんも、字がサカサになったり、斜めになるような詩を作っていたから、そういう時代だったのかも知れない。

童謡を作る事もはやったようで、私も作文の後の頁に童謡らしきものを、よく書いた覚えがある。父は書画骨董にも興味があり、丹波焼をも収集し、佐々木ガン(我)流と称して投げ入れを楽しんだ。

謡曲、仕舞も宝生流をよくし、私と一緒に入浴すると、羽衣や西玉母をうたってくれた。私も仕舞の手ほどきを受けたが、父の多忙というより、私の不熱心でいつ頃か止めてしまった。先日テレビの「謡曲入門」で一寸真似てみたら、案外すらすらと自然に声が出るのには驚いた。

 父は政治運動にも感心があり、土地の民政党の代議士を応援し、選挙になると、町田さんとか若槻さん等に選挙資金をもらいに行った。金銭に対しても皆から絶対の信頼があったからである。 
当時、政友会と民生党が二大政党で、選挙に負けた方の違反が摘発され、警察署長もその結果で更迭された。昔の議員は井戸塀と言い、自分の全財産をなげうって選挙を戦い、私欲を肥やす事はなかったように思う。昔日の感がある。

犬養木堂さんも丹波へ来られたようで、自筆の額が今も家にある。
 父は自分自身も町会議員選に出、郡是社長、大本教幹部に続いて第3位で当選した。当選の夜の異常な興奮と華やぎを今も思い出す事が出来る。私は選挙の不思議さと面白さを、小さい時から冷静に眺めていたようである。

♪子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人  愛子

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