闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.195
監督がエリア・カザン、プロデューサーはダリル・ザナック、主演がグレゴリー・ペックというハリウッド映画史上最強の黄金コンビによる堂々たるユダヤ擁護映画である。
すぐる大戦の前から私たちの先輩が故なく同じアジアの同胞をチャンコロとかチョウセンジンなどと嘲罵して故なき優越化に耽ったように、碧眼紅毛どもは短足黄班の私共をジャップと故なく蔑んだ。穢多非民部落民ユダヤ人アイヌイヌイットその他もろもろを問わず世界中で階級階層民族差別は古くから存在し、そしていまなお存続しているのである。
さうしてこの差別の真因がどこにあるのかは、その不条理を完膚なきまでに解剖し尽くしたこの映画を観終わっても、まだしかとは把握できない。非ユダヤの身でユダヤ人になりかわってその隠微な差別の根の深さを体験したグレゴリー・ペックのように、私たちも一生に何回かは民族や身分や地位を舞台衣装のように脱ぎ着できたら差月史観を肉体的に相対視できてよろしかろうが、眼前の人生劇場がそれほどドラマ仕立てに出来ていないのがまことに残念である。
新聞記者のペックの恋人が映画の最後でようやくおのが人種差別の当事者であったことに遅まきながら気がついてその差別に反対する行動を取るに至り、ついに価値観を共有するにいたった恋人がひしと抱き合うところで本作は終わるが、このいかにもヒューマニズムと理想主義の残滓芬芬たるカザンらしいエンディングを「甘い甘い」とせせら笑いながらも、かの鬼のザナックはフィルムに鋏を入れなかったのである。
ペックの恋人役のドロシー・マクガイアはつまらないが、母親役のアン・リヴィアの風貌が忘れ難い。この映画を観終わった私は、わが国が生んだ一代の梟雄豊臣秀吉が尾張名古屋の村落のしがない針売りであったことをはしなくも思い出した。
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