Tuesday, January 17, 2012

吉川一義訳「失われた時を求めて1」を読んで

照る日曇る日第485回

岩波文庫からプルーストの「失われた時を求めて」の全訳が出始めたので読んでみた。第1編「スワン家のほうへ」の第1部「コンブレー」が収められたその第1分冊である。

私は以前井上究一郎氏の旧訳でこれを読み、とても面白かった。眠れないままにかつて横たわったすべてのベッドやそこをよぎったすべての想念を思い出そうとする主人公はまことに親しい存在と感じられたし、マドレーヌに浸された紅茶の味から心中に湧きおこる過去の思い出、思いがけない場所から様々な姿を見せる教会の鐘楼、むせぶような薔薇色のサンザシの芳香、カシスの葉に放たれ生まれて初めての一筋の精液、そして一瞥しただけで美しい少女ジルベルトへの恋に陥る少年の感じやすい心が我がことのように思われたからである。

多くの読者がプルースト特有の長すぎるセンテンスに辟易して読書を放棄するようだが、それはじつにもったいないことだ。なぜなら「失われた時を求めて」は読めば読むほど下世話な意味でもおもしろくなり、失われた時も空間も当初の茫漠なありようから一転してリアルな像を結ぶようになり、最終巻を閉じる際には誰しも異様なぶんがく的感銘に圧倒されること請け合いだからだ。

吉川氏の訳は井上訳の文学的曖昧模糊とした香気には多少欠けるが、その代わりに語学的・史実的な正確さと現代感覚が読む者の理解を大いに助けてくれる。願わくばこの平成の大事業がつつがなく全14巻の大尾を全うすることができますように。

森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん 蝶人

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