照る日曇る日第480回
私の家はなぜかプロテスタントであったから、幼いころから教会に通わされて牧師の説教を聞いたり讃美歌を歌わせられたりしたものだ。それで大略キリスト教についてはわかったような気がしていたのだが、本書を読んでとそんなものは一知半解の胡乱な代物のであったとはじめてわかった。
新約聖書ではマタイ・マコ・ルカの共観福音書がメインであると勝手にかんがえていたのだが、その中ではマルコ伝の記述がいっとう古くて、それをもとにマタイ伝とルカ伝が書かれたとか、それに先立って決定的に重要なのはパウロによるローマ人やコロント人などへの書簡で、有名な12人の使徒でもなく、生前のイエスに会ったこともなく、キリスト教徒を弾圧していたこのローマ在住トルコ生まれのごりごりのユダヤ教徒徒が突如イエスは救世主であったと称してその要点をレポートしたのがこの新興宗教のはじまりであり、その後であわててイエスの思い出話をかき集めたのが福音書だったとは知らなんだ。いくつになっても恥はかくものです。
私自身はげんざいは汎神論的な無神論者であり、とりわけイスラム教やユダヤ教やキリスト教などの一神教にたいしてまったく好意を抱けないのだが、それにしても古代オリエントの砂漠地帯に出没した教義すらない超ローカルな宗教が、いつのまにやらこれほど巨大な世界宗教になりあがったことが不思議でならない。
個人的には人だか神だかよく分からないイエス・キリストという人物には興味があるが、神とキリストと精霊が3にして1であるという不可解な「三位一体」説だとか、聖書にはでてこないのに市民権をえた「煉獄」、教祖パウロの後継者と称するローマ法王庁だとか、多くの反対者を異端として弾圧する公会議というのも不条理な存在ではある。
しかしいかに怪しい宗教団体であろうとも、それが西欧世界の社会的文化的中心にあって人類の発展と進歩に絶対的な影響をもたらしてきたことも事実であるから、その正体を追及するこころみもあながち無駄ではない。
本書はそもそもキリスト教とは何か? イエス・キリストとは何者か? について論客の2人が縦横に質疑応答しながら論じた後で、西洋文明の中核を貫くキリスト教の本質について考察するというきわめて時議を時宜を得たハンドブックといえるだろう。
「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻 蝶人
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