照る日曇る日 第382回
昔昔貧乏な学生時代の私は、主にNHKの舞台大工のアルバイトやビル建築の真夜中の肉体労働でかろうじて生活していました。NHKにおける泊まり込みの主な仕事は「歌のグランドショー」と「ひょこりひょうたん島」のスタジオのセッティングでしが、後者の人形劇の作家の一人が井上ひさしという人物であることを知ったのは私が見事リーマンになりおおせた後のことじゃった。
彼の本業である演劇はテレビでしか見たことがなかったが、宮沢賢治の父親を佐藤慶が演じた「イーハトーボの劇列車」や樋口一葉の薄幸の生涯を描いた「頭痛肩こり樋口一葉」にはいたく感動し、いずれは彼の劇作品をのこらず見物してみたいという希望を抱いていた矢先にこの春に急逝してしまった。
それでという訳でもないが先日は小説の遺作「一週間」を読み、続いてこの本をひもといてみたという次第です。
本巻に収められたのは「父と暮らせば」「黙阿弥オペラ」「紙屋町さくらホテル」「貧乏物語」「化粧二題」「連鎖街のひとびと」「太鼓たたいて笛吹いて」「兄おとうと」の八編であるが、どの作品も心血を注いで書きあげられた傑作ぞろいでありました。
この人の脚本は単に内容がすこぶるつきに面白いのみならず、舞台や人物の設定やセリフやら音楽の吟味が徹底的に具体的な上演に即して書かれていることで、これは普通の戯曲家が普通にやるレベルをはるかに超えている。小澤征爾が振る「白鳥の湖」ではプリマドンナがずッこけるが、これがモントーやゲルギエフならみんな安心して踊れるというようなことである。
「父と暮らせば」「紙屋町さくらホテル」は広島鎮魂劇であるが、いずれも丸山定夫や園井恵子のサクラ隊の全滅などを直接描かず、幕が静かに、あるいは急速に降りた直後に惨劇の実態がくっきりと像を結ぶ手腕は並みのものではない。
河上肇と吉野作造兄弟、林芙美子をそれぞれ題材とした「貧乏物語」、「兄おとうと」「太鼓たたいて笛吹いて」も内容豊かな力作であるが、私は敗戦直後の旧満州を舞台にした喜劇的な音楽劇「連鎖街のひとびと」がいたく心に沁みた。そこでは演劇が過酷な現実を無化しようとする途方もない夢が丸裸で転がっている。
思えばこの戯曲家は、むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに、という彼の願いどおりの作品を、後の世代のために書き遺したのであった。
難しいことをもっと難しくその難しいことを浅はかにその浅はかなことを面白おかしくさわぐ世間よ 茫洋
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