Monday, January 28, 2008

小島信夫著「暮坂」を読む

照る日曇る日第92回

この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。


新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊

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