Wednesday, July 25, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅・中国編」を読む

降っても照っても第38回

紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。

やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。

その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。

「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。

達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。

しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。

その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。

しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。

このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。

No comments: