Saturday, July 14, 2007

梅原猛の「京都発見第9巻」を読む

降っても照っても第33回

読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。

比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。

私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。

またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。

それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。

最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。

延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。

そこで著者は訴える。

すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。

著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。

さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。

金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。

これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。

No comments: