鎌倉ちょっと不思議な物語第166回
広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。
斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。
さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、矩形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。
やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。
またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。
鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。
♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋
No comments:
Post a Comment