照る日曇る日第237回
最近詩人アルチュール・ランボーの研究は、彼が37年の短かい生涯の中でアフリカで過ごしたおよそ10年間の後半生における生活と文学活動に集中している感がある。
17歳でパリ・コンミューンに加担し、19歳で「地獄の季節」を出版し、20歳で「イリュミナシオン」を完成し、21歳でピストルで撃たれた「恋人」ヴェルレーヌと決別し、23歳で明治日本へ行こうと夢見た天才詩人は、25歳にしてはじめて東アフリカ、現エチオピアのハラルを訪れ、当地を拠点として武器弾薬、象牙、香料、コーヒー等をなんでもあつかう灼熱の砂漠の大商人として活躍するのだが、この間に友人知己、家族、地理学協会に書き送った書簡が、若き日の詩作に勝るとも劣らぬ「文学作品」として、彼のアフリカ生活と共に再評価されているようだ。
かつて黄金のように輝かしい詩篇を生み出したこの19世紀最大の詩人は、けっして詩作を断念したのではない。いっけん無味乾燥と考えられがちな、この簡潔で事務的な商業文、そしてその行間から立ち現れる「新アフリカ人」としての生活、偉大な大旅行者の足跡そのものが「生の文学」に他ならない。あの南太平洋に遁走したゴーギャンが、旧態依然たる西欧美術に弔鐘を打ち鳴らしたように、ランボーもまた、というのである。
1891年11月10日午前10時、ランボーはフランスの港町マルセイユのコンセプシオンン病院で全身がん腫に冒され、右足切断の犠牲も空しく没するが、最後の最後までアフリカに戻ること願い、その遺言は「何時に乗船すれがばいいかお知らせください」であった。ランボーは恐ろしい激痛を堪え、彼の最期の作品を死を賭してマルセイユで書いた。
またランボーは、巨費を投じて当時の最新メカであったカメラと撮影機材一式をパリからハラルに送らせ、彼自身のポートレートを含めた8枚の写真を撮ったが、それが本書の執筆動機になっている。ある意味では晩年の詩人のドキュメンタリー的小説であり、ある意味ではアフリカにおけるランボー研究の最新レポートであり、またある意味ではランボー研究家が自作自演する色っぽい推理小説でもある。
色っぽいといえば、著者はヴェルレーヌとの関係において「ランボーは女であった」と断定しているが、それはどんなものだろう。アフリカにおける彼の多彩な女性関係や「地獄の季節」における性的叙述、そしてなによりも両者の詩風(男性的なランボーと女性的なヴェルレーヌ)を考えれば、その役割は逆ではなかったか、と愚考するあまでうすでありました。
少年にして少女のかんばせ カルジャが撮りし17歳のランボー 茫洋
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