照る日曇る日第235回
詩人が「あたしは」と呪文のようにつぶやくとき、地軸は停止し、世界は沈黙し、失われた遠い日の思い出が一挙に蘇る。
―とつぜん春になったので、ビルの最上階の歯科医院は歯槽膿漏の患者であふれ、エーテルの匂いのする若い歯科医はうっすらと汗ばみながら腫れた歯肉を切り裂いてゆく。
―わずかばかりの夏 あたしのひとりきりのたった一度の海 赤いビーチサンダルをはいた少年を波打ち際の砂に埋めた。少年の声は次第にうず高く積まれる砂の中で恐怖の声に変り 生温い海水の中に沈んでいった。
―ふとった女医が外科器の触れ合う音にうっとりしながら慣れた手つきで掻爬している。光は光にかみつき 次第に自滅し 太陽の手錠は少しずつずれて静かに夏は老いてゆく。
―晴れた秋の日 火葬場では人が燃え 隣のグランドでは 少年たちがラグビー球を蹴っている。
―冬が来た。けれどあたしの蹠の王国では時折夏の残照が燃えて 吹雪の夜 爪など切っていると剥きでた薄桃色の皮膚のうえに多肉植物の切り口のような緑の臭気がたちのぼってくる。
(以上は、別の作品の詩句を無断でコラージュさせていただきました)
詩人の心臓から流れ出した真紅の血潮は、乾ききった不毛の荒野を流れ流れて干天の慈雨のように私たちの魂を潤す。
天使のように優しく、悪魔のように大胆な性と聖と生の饗宴に、私たちは思わず言葉を失ってしまうだろう。
それにしても海や空を漂う夥しい嬰児の亡骸は、詩人の妄想であろうか。それとも亡霊に仮託したおのれの切実な体験であろうか。
♪言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました 茫洋
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