鎌倉ちょっと不思議な物語第162回
地元の十二所公民館に、鎌倉国宝館の三浦勝男氏が来訪され十二所の歴史と宗教について短い講演をされたので簡単に抄録しておこう。
まず鎌倉で往時の面影をいまに伝えているのは、ここ十二所と山崎と扇谷の3箇所だけである。特に十二所は滑川が流れ、船着き場があり、港へのネットワークが発達して盛んに交易を行っている点で「もっとも鎌倉らしい鎌倉」と言える。十二所は鎌倉七口のうち西御門(晩年の江藤淳が住んでいた)と並んで幕府にとってはもっとも重要な脱出口であった。(朝比奈峠から六浦を経て房総半島にいたる)
あまでうす曰く。巴里が仏蘭西にあらざるが如く、紐育が米国にあらざる如く、現在観光客が群れ集って殷賑を極めている小町通りなどは「もっとも鎌倉らしからぬ鎌倉」であろう。
次に、「十二所」(じゅうにそう)という地名は秋田県大館、兵庫県養老、福島県会津など数か所あるが、いずれも熊野信仰に基づく。当時の人々は、死ぬとその霊は「八咫烏(やたがらす)」という三本足のカラスが熊野にまで運ぶという信仰があった。だから熊野は、それらの霊を祀り穢れを清める神聖な霊場であった。また熊野神社は空海ゆかりの高野山系真言宗の本拠地でもあるが、後白河法皇などは源頼朝から金千両をせがんでは幾度も熊野に詣でた。
しかしその熊野にいます十二神をワンンセットで勧請したのは当地だけであり、そういう意味ではきわめて格式が高い。しかもそれを鎌倉の光触寺に勧請したのはほかならぬ一遍である。
一遍は時宗を興した。彼は当初は時宗ではなく「時衆」と称していたが、北条氏の弾圧により改名せざるを得なかった。時宗は同じ鎌倉新宗教の禅宗に似ていて、己の欲を断てと民衆に説き、財産や係累のすべてを捨てよと力説した。そのために光触寺の住職と懸命に資料を捜したが出てこなかった。恐らく一遍が全てを廃棄したのだろう。
その一遍は1282年に小袋坂から鎌倉に入ろうとしたが北条時宗に追い返された。親鸞も同様で、宗祖としてただ一人入鎌できたのは日蓮だけだった。大きな法難を被ったにせよ、それが可能だったのは、彼の出身が千葉の網元でそこが北条氏の領地であったことが影響していると考えられる。
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり 茫洋
追伸 昨日アップした「レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「海への新しい小径」を読む」は「滝への新しい小径」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
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