鎌倉ちょっと不思議な物語第170回
浄光明寺は皇室の菩提寺である京都の泉涌寺を本山とする「準別格本山」であり、慶長3年1251年に6代目執権の北条長時が真阿上人を開山として創建したお寺ですが、それ以前に源頼朝が頼んで文覚上人が建てたお堂がそもそものはじまりだそうです。
元弘3年1333年には後醍醐天皇の勅願所となるいっぽう、真言、天台、禅、浄土の4つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築きました。また足利尊氏は建武2年1335年にこの寺にこもり、後醍醐天皇に反逆することを決意したといわれており、尊氏、直義兄弟の帰依と奇進と受けたのです。兄弟が足利家執事の高師直の軍勢に十重二十重に取り囲まれたのもこの寺でした。
本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩が安置されています。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊でした。篤信家の直義でしたが兄尊氏との私闘に敗れ、最後は同じ鎌倉の浄妙寺で無念にも殺されてしまいます。しかしその同じ直義が後醍醐天皇の皇子護良親王を暗殺しているのですから因果は巡る風車といったところでしょうか。
浄光明寺の裏山には、一四世紀の歌人、冷泉為相の墓(宝塔印塔)があります。為相はあの有名な歌人藤原定家の孫で、父の死後遺領の相続をめぐって異母兄と争い、その訴訟のために鎌倉へ下向した「十六夜日記」で知られる母の阿仏尼のあとを慕って当地に入ったのです。
♪北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰 茫洋
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