Wednesday, March 18, 2009

小川国夫著「イエス・キリストの生涯を読む」を読んで

照る日曇る日第243回

イエスの言葉については郷里の丹陽教会で、S牧師をつうじて再三再四にわたって日夜聞かされたが、神やイエスの実在について、わたしはどうしても信じることができなかった。まことに失礼ながら、時折はまるで夜店の香具師のような説教だとも思ったものである。

それはこのたび小川国夫のこの聖書講義を読んでも、本当のところは同じように感じた。信じる者と信じられぬ者、神につく人とつかぬ人。彼らと私の間には、たったの1歩を隔てて、どうしても飛び越えることができない千尋の谷底が横たわっており、彼らはその谷の向こうから神聖なることどもを、さまざまに語りかけてくるのであるが、やはりそれらはすでに異界に居住する賢人、聖人の言葉であって、しょせん私のような異邦人には解しがたい言葉なのであった。

そもそも新約聖書は、神様と人類のあたらしい契約、約束の書であるから、罪を犯した人類のために犠牲となったイエスの聖なる言葉とその復活を信じない者が読んでもほんとうは意味をなさない。契約を拒んだり無視しようと決めた人間などが手にしてはならない文書であると言っても差し支えないだろう。

しかし私は、謎のようなエホバの言葉、意味が分からないけれども妙に惹かれるイエスの言葉の深遠さに文学的な面白さを感じて、新旧ふたつの聖書を折にふれてひもとくようになったのである。

例えば私は、虐げられた人々の側に立って、「あなたたちの中で罪がない者がまず石を彼女に投げつけるように」(ヨハネ伝8章)と優しい言葉をかけるイエス、そして、その反対にエルサレムの神殿に乗り込んで、牛、羊、鳩を売る者を追い出し、両替する者たちの机を覆し、「私の父の家を商いの家とするな」と怒り、「この神殿を壊すがいい」と阿修羅のように絶叫する秩序破壊者のイエスが好きだった。(P113~118)

精神の王国にしか住めないイエスは、商業による蓄財と家族による平和の絆を本心では蛇蠍のごとく忌み嫌っていたのではないだろうか。そして少年時から青年時代にかけての私は、そんな「戦うイエス」を激しく愛していたのである。

けれども私にとってキリスト教はついに異国の一神教にすぎず、神と聖霊と子は難攻不落の砦であり続けるだろう。しかし、次に掲げる「南北戦争に従事して盲目になったある南軍兵士の祈り」なら私にも理解できるし、これを“神様の御業”と讃えた亡き大伯母の気持にも素直に寄り添うことができそうだ。

「答えられた祈り」(原文英語、アイリーン・ベン投稿 左近允訳)

功績をたてるために神の力を求めたのに
謙遜に従うことを学ぶように無力にされた。
もっと大きなことをするために健康を求めたのに
もっとよいことをするように虚弱を与えられた。
幸福になるために富を求めたのに
賢くなるように貧しさを与えられた。
人々の称賛を得るために権力を求めたのに
神の必要を感じるように無力を与えられた。
人生を楽しむためにあらゆることを求めたのに
あらゆることを楽しむためにいのちを与えられた。
求めたものは何も得られなかったのに、
望んでいたものは何でも得られた。
ほとんどわたし自身にかかわりなく、わたしの無言の祈りは答えられた。
すべての人の中で、わたしは最も豊かに恵まれた。


「ああ神様、おお、しかし神様」と身もだえしながら祈りしわが父よ 茫洋

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