Thursday, March 12, 2009

鎌倉の廃仏棄釈 十二所の歴史と宗教 その2

鎌倉ちょっと不思議な物語第163回

明治初年の廃仏毀釈によって鶴岡八幡宮寺の大伽藍や仏像や宝塔はことごとく廃棄され、価値ある仏像や経文の多くは市内や遠くは浅草寺にまで散逸してしまった。先日の中国清朝の彫刻やインドのガンジーの眼鏡と同様、文化財は本来の場所に返還されねばならない。

神仏分離令では一夜にして坊主が神主になり替わった。それまで縦に木魚などを叩いていた僧侶が突然横に幣を振り始めたので脇を痛めて困っている、と当時の文書に書かれているが、ともかく神道では平気で魚などを食らい殺生していたのに、仏教ではかたく禁じていたから、大きな矛盾に逢着した。そこで両者が知恵を出し合って作ったのが放生会という儀式で、まずはウナギとドジョウを食らったあとでこれらの生き物を川に逃がしてやったのである。

鶴岡八幡宮には二五坊があるが、十二所にも数多くの僧侶が二五か所の寺院に多数住んでいた二五坊が存在したのではないかと考えられる。御坊谷、御坊橋、御坊井、御坊坂など現在の地名がそれを跡付けている。二五坊というのは阿弥陀仏が来迎する際にその周囲に連なっている二五の仏にちなむ二五の寺院を指す。

太陽の神は烏であり、月の神は兎と蟇蛙である、とするのは中国の神話であるが、それが日本に入ると太陽神はやはりカラスであるが、月からはカエルが姿を消してウサギだけになった。(竹取物語)。ちなみに中国の最高神は龍であるが、本邦に入ると鯉となった。
いずれにせよ中国では日月の神は常に対になっていて、本地垂迹説によって本邦では日光、月光両菩薩のようにペアで仏が建造されることになる。十二所には御坊橋の近所に月輪(がちりん)寺の旧跡があるので、当然その付近に日輪寺もあるだろう。

あまでうす独白。

かつて私が日輪寺と想定した中世共同埋葬センターの向かいの谷戸は、三浦氏も寺院跡であると認められた


―日経連載中の小説を読んで
♪坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子 茫洋

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