Wednesday, March 04, 2009

網野善彦著作集第4巻「荘園・公領の地域展開」を読んで

照る日曇る日第236回


本巻の月報で犬丸義一が若き日の網野について書いている。

1949年4月犬丸が東大に入学したとき、網野は歴研を代表して挨拶した。
この年は1月の総選挙で共産党の議席が一挙に35に伸張し、東大生の支持政党の第一位が共産党になった左翼の季節で、巷では「9月革命説」が流布していた。実際に国史学科に入った16名のうち実に9名が日共に入党している。

網野は卒業後は渋沢敬三の日本常民文化研究所に就職し歴史研究会の委員として活躍しながら、日共の指導部にいて引き続き革命運動に打ち込んだ。国民的歴史学運動の華やかな展開の中で、青年歴史家会議の議長に就任し、歴史家会議の指導部にいた石母田正、松本新八郎、藤間生大などと共闘していたのである。

当時党の地下指導部からはカーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類が配布されていたが、犬丸はそれを月島の常民文化研究所にいた網野から受け取って、民科歴史部会のグループ員に渡していたという。

53年3月、犬丸は網野らの指示によって深夜密漁漁船で当時国交のなかった共産中国に渡り、北京郊外の中国人民大学で日本近代史、労働運動、共産党史などを教え、58年7月、中国からの最後の引き揚げ船白山丸で舞鶴港に着いた。

東京に着くと密出国の罪で留置・起訴されたが最終的には懲役3か月、執行猶予1年の判決を受けたが、網野は終生このことを苦にして責任を感じていたという。


もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが 茫洋

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