照る日曇る日第245回 怒れる老哲学者の叫びを聴け
能の大成者である観阿弥(世阿弥の父)の出生地は、大和ではなく断じて伊賀である。
観阿弥は伊賀に縁の深い上島家、永冨家、南朝の功労者楠正成の親類縁者として当地に生まれて能の一座を立ち上げたのちに初めて大和に進出した。
正成ゆかりの観阿弥は、とうぜん南朝の流れを汲む武士の一族であり、二人の兄を戦乱のさなかに亡くしていたが、観世音菩薩(観阿弥、世阿弥、音阿弥の命名はここから)の加護によってただひとり河原者となったが、「南北朝の調停者」であった北朝側の支配者足利義満の思惑によって引き立てられ、格上の金春座などを抜いていっきょに猿楽のスターダムにのし上がった、と著者は熱く説く。
「観阿弥伊賀出生説」はかつては学会の定説であったが、明治四二年(一九〇九年)吉田東伍が「世阿弥一六部集」を出してこれを疑い、能勢朝次の「能楽源流考」において大和説に逆転したのだが、すでに80歳を超えた梅原翁が、この大和説をうのみにする能学の権威者香西、表(岩波文庫「申楽談義」の編者)両氏に全面的には歯向い、筆鋒鋭く反論するさまは阿修羅のようにものすごく、本署の白眉である。
ここには能という孤城に閉じこもり、能の先駆者の生き方や南北朝の政治経済文化状況、仏教の本質についてあまりにも無感覚で不勉強な斯界の専門家に対する激しい憤りが感じられる。著者がみずから告白するように、この本はまさしく梅原翁に乗り移った観阿弥世阿弥の霊が書かせているような気もする。
しかし私はこのいささかエキセントリックな前半の論難部分よりも、後半でじっくりと描かれる観阿弥の能の名作「自然居士」「金礼」「卒塔婆小町」「百万」などの情意を尽くした見事な評釈の方がよりいっそう心に沁みた。
♪曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け 茫洋
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