「吉田秀和全集第24巻ディスク再説」を読む
キャンバスを前にして、人物や風景を描こうとするときには目と頭が必要だが、ドガのように線で描くか、セザンヌのように色で描くか2つの方法があるのではないだろうか。
前者は対象を知的・分析的にとらえ、後者は直観的・直感的にとらえる。
「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である」と語ったドガは、「橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす」とも語った。
しかしセザンヌは、「君たちのいう有名な線はどこにあるのか? 私には自然の中には色しか見えない」というドラクロアの思想をさらに徹底的に延長し、「色彩が充実豊富になればなるほど表現は精密的確になる」と考えた。
それもさまざまな色彩を使い分けたり、複合的に組み合わせたりしながら個々の物体、あるいはいくつもの物体の集合を描くだけではなく、そういった物体だけの存在する空間そのものを画面に掬い取り、現出させることを目的とするようになった。
自然の世界に見出される「あれやこれやの個々の物体」でなくて、描くことによってはじめて生まれてくる空間、つまり絵画的空間を作り出すこと。これがセザンヌの仕事が終局的に到達すべき地点だった。
セザンヌはまず水平と垂直の軸を定め、そこにこれから現出させようと望む空間の枠、いや正確には骨組みを設定する。
「水平に平行の線は広がりを、その水平に対し垂直の線は奥行きを表す。そうして人間にとっては自然は横の広がりよりも縦の奥行き、深さを通じてかかわってくるのである」
セザンヌはそうやって設定された骨組みを絵画的空間として「実現する」段階にどんどん深入りする。それが「線でなく色で描く」彼ほんらいの作業である。
No comments:
Post a Comment