鎌倉ちょっと不思議な物語56回
吉田邸は敷地は広いが、家は年代物のまことに粗末な平屋であるがまだ存在しているのに、数寄を凝らした小林邸は跡形もない。(小林の家と庭の無残な崩壊のてんまつについては吉田秀和全集23巻「小径の今」を参照のこと)
ここからわずか10数メートルの距離に大仏次郎茶亭がよく保存されているのを見るにつけ、まことに残念なことだったと思う。
吉田氏によれば、中原にとって音楽は生きるうえで必要不可欠なもので、彼の音楽論はすばらしく面白かったそうだ。
吉田氏と中也はよく一緒にモーツアルトやバッハを聴いたそうだが、あるとき「陽気な音楽にはもう飽きたよ」と言い出した。長谷川泰子との失恋はそれほどの衝撃を中也に与えた。「中也はあの失恋だけで一生を過ごしたようなものだ」と吉田氏は語っている。
可哀相だた、中也のことよ。
しかし、レコードが中原の手に入ると、いつも行方不明になったという。
大岡昇平が阿部六郎に持ってきたシューベルトの『死と乙女』の3枚組みは、たちどころに消えて中原に呑まれてしまった。
呑むためには金が必要で、中原は金のある奴に払わせてせっせと質屋に運んでいく。それを恩師の阿部は笑って許していたそうだ。ここらへんは辰野隆と小林秀雄の関係にちょっと似ている。
音楽、そしてフランス語の師匠であった中原を負かしてやろうと思って、吉田氏は奥さんのために買ったピアノで、毎日ヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いていた。
その吉田氏の傍に来て阿部夫人は、ハーッとため息をついていたそうだが、こういう話をきくと阿部六郎夫妻の偉大さはますます光り輝いて見える。
ちなみに阿部六郎は独文学者でかれが翻訳した角川文庫の『ツアラストラかく語りき』は私の愛読書でした。
それから、「吉田秀和全集第23巻」には、吉田氏が中也と麻布二の橋の青山二郎の家に泊まったときのエピソードが書かれていて、なかなかおもしろい。
当時青山は舞踊家の武原はん(もちろん先代の)と同棲していたが、吉田氏は彼女の素足の美しさに惹かれる。
そしてその翌日、二階の雨戸の隙間から朝の光が入ってきて、天井に光の条が何本かちらちらするのを見て、それが中也の「朝の歌」とまったく同じ光景であることに驚いたそうだ。
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