Friday, April 27, 2007

東京ミッドタウンのガーデンを眺めながら

勝手に東京建築観光・第11回

 
歴史的風土を切り捨て、市場原理だけを優先して商業施設を乱開発する人たち。その土地固有の植生を無視して自分勝手な好き嫌いや趣味や流行で公共の場の園芸プランをわたくしする人たち。見た目や手入れや費用だけで街路樹を選定するおぞましい人たち……。

彼らはその土地に古くから棲む精霊の御業によって成仏できず、われら現代人の永遠の憧れである、あのワンダフルな靖国神社に小泉前首相や石原都知事とともに合祀されることも許されず、未来永劫にわたって神国不敬罪の罰を受けることだろう。

東京ミッドタウンのアトリウムや庭園に植えられている植物は、ほんらいは長州藩毛利家下屋敷の植生を想起すべきだと私は考えるのだが、実際に植えられているのは地霊になんの敬意も払わない“任意の素敵な植物群”である。

この庭にはナミアゲハやアオスジアゲハやモンシロチョウやエノキチョウが飛来することはあっても、その産卵と孵化が行われることはない。

土壌の設計の段階で、動植物の再生と再生産という視点が見失われ、生態系の循環が切り捨てられているのだ。

この土地の真の主人公である地下の微生物の「生産」を捨象し、この土地に定住しない人間たちの「消費」しか想定しない庭園では、時間と共に推移する生命に満ちた豊穣な自然は本質的には存在していない。

だからこの庭園は晴れやかではあっても、無個性であり、太宰のいう「ホロビニイタルアカルサ」に包まれた“カルチャーなき仇花”なのである。

そのガーデンは、東京のど真ん中で、生命の流通と交換を絶たれたまま、中空に停止している。根無し草として串刺しになり、すでに仮死の状態にある。

私はこれと同様な光景を、数年前の神宮外苑の「第1回ガーデニング大会」で見たような気がする。

そこには「我が懐かしき庭の記憶」というタイトルで、昭和初期の木造住宅と小さな庭が設営され、物干しに干された洗濯物が翻っていた。

驚いたことには、会場のいたるところに人工林が作られ、白樺林の間を縫って清らかな小川までがさらさらと流れているのであった。

それは確かに懐かしい光景ではあったが、あくまでも大量の資金と大量の植物や水や土土砂をどこかの自然を破壊してこの人工舞台に持ち込んだ“まがいもの”であった。

このイベントが終った後、誰がその白樺や桜や無数の草花を元の生育地に返還するのだろうか?

それなのに人々はその“贅沢なまがいもの”を、心の底から賛美しているのであった。

おお、なんと退廃した大宮人たちよ。そなたの鋭敏な感性と知性こそ呪われてあれ!

うるおいのない都市生活に自然を取り戻そうとするガーデニングに人気が集まり、その手法や技術が洗練されるのは文化の進歩である。

しかしこれは自然の復権ではなく、その反対の暴挙ではないだろうか。

そこには、長年に渡って田舎のゲンジボタルを乱獲し、観光ホテルの庭園に放って観光客を誘致していた都会人の傲慢と共通するような無知と傲慢が流れていた。

ゲンジボタル1匹と共生できなくて、なんの己がにんげんか!

いずれにしても、これからの建築は本体と同様、あるいはそれ以上に庭園や植樹のあり方に高邁な思想の差配が必要である、

と、私は砂上の楼閣に似た白痴的ガーデンの虚栄の美を見るともなく眺めながら考えたことであった。

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