1750年まで、中国は生活水準と文明の発展において欧州と肩を並べていた。
いや、繁栄の度合い、政治、芸術のいずれにおいても勝っていたといえよう。
しかし産業革命がすべてを変えた。綿の織物産業における中国の家内制手工業の優位を打ち破ったのは、英国のジェニー紡績機と蒸気エンジン、そして専門家による分業生産システムであった。
中国を打倒し、世界の綿糸需要の半分近くを供給した英国の綿産業は、1930年代に大量生産方式の米国にその優位を奪われ、18世紀後半になると世界最大級の工場はすべてニューイングランドに集中していた。
また米国における綿生産の中心地は次第に南部に移り、その唯一最大の成長エンジンは中国への輸出だった。19世紀末、米国の織物輸出の半分以上を中国が消費し、米国から中国への輸出の半分以上が綿織物だった。その大半を製造したのが例の映画「風と共に去りぬ」に出てくる奴隷制で知られる南部だった。
そこに登場したのが旭日昇天の日本帝国で、1930年代半ばには日本が世界の綿製品輸出のほぼ4割を担うようになるのである。
英国に100年遅れた日本でも、この産業に従事する労働者は半分以上で繊維製品は輸出の3分の2を占めていた。第2次大戦前までの日本にとって世界で通用する唯一の産業が綿織物だったのである。(「ある丹波の老人の話」を参照)
日本の紡績能力は大戦中に9割以上が破壊されるが1950年代にはトップの座を取り戻すことになる。当時の日本は繊維のみならず衣料品貿易においても世界を主導していた。
ところが60年代になると二つの領域における日本の貿易シェアは次第に減り、さらに安くて従順な労働力を持ったアジアの国々が競争をリードするようになる。
そしてついに70年代には香港、韓国、台湾の新興工業国・地域が日本を抜き去り(アジアの奇跡)、70年代半ばに香港が世界最大の衣料輸出国に躍り出る。
しかし、本命はその背後から迫っていた。
1980年以来中国の衣料品輸出は毎年平均して3割以上の成長を続け、1993年には世界最大の衣料品輸出国になり、今日もなお米国が綿の世界市場に君臨するのと同様、その後もずっとその位置を維持している。
2005年に多国間繊維取り決めMFAが廃止され、中国の繊維製品は欧米の港に押し寄せたが、欧米諸国は改めて中国に厳しい輸入制限を課し、自国の繊維産業を懸命に保護したのであった。
先進国と発展途上国の貿易摩擦の対立は、これからますます熾烈なものになるだろう。
(参考 森安 孝夫著「シルクロードと唐帝国」、ピエトロ・リボリ著「あなたのTシャツはどこから来たのか?」)
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