闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.131
ケネディ大統領が殺された日のことはよく覚えている。私は京都市左京区の田中西大久保町の下宿を出たところで近くから流れてくるFEN放送のコールサインに続くプレジデントケネデイワズアササンドという悲痛な繰り返しに耳をうばわれ、しばらくその場に立ち止まって呆然としていた。それは1963年11月23日のお昼前のことで、京の秋空は雲一つない快晴だった。
1991年にオリバー・ストーンが監督したこの映画は、ニューオーリンズの地区検事長ジム・ギャリソンの視線で第35代米国大統領の暗殺事件の謎に挑む。ストーン=ギャリソンは、この虚構を交えた3時間を超える大長編映画を通じて、キューバやベトナムへの軍事介入から手を引き、黒人の公民権を獲得させようとした「民主的で進歩的な大統領」を、軍と軍需産業、保守派の政治家とCIA、FBIなどが暗黙裡に連合戦線を組み、陰謀と狡知の限りを尽くして白昼公然の暗殺に成功し、この醜い影のテロリストたちは余勢を駆ってキング牧師やロバート・ケネディを葬り、米国を輝かしい自由の国を野蛮なファシスト支配の国に変えてしまったと訴えるのである。
私は別にケネディや巨人や大鵬や卵焼きを好きでもないし、格別偉大な大統領とも思わないし、この国が自由の国であるともファシズムの国だとも思わないが、この映画を見ている限りではストーン=ギャリソン説が真実であるかどうかは2029年のオズワルドやジャック・ルビー等の証言記録の公開を待たずして軽々に確言はできないと思った。
映画の中で紹介されるのはすべて状況証拠ばかりであるし、肝心の証人がほとんど死亡するか殺されてしまっている。それにもかかわらず映画の中ではギャリソンに扮したケビン・コスナーが正義の味方よろしく「死にゆく王に権威なし」と、殺された王の遺徳を称える大演説をしている。映画の中で政治的主張をしても構わないが、そのことがその主張を正当化したり、まして映画の価値を高めるかと言うとそんなことがあるはずがないのである。
ロバート・ケネディが暗殺された瞬間から妻のシシー・スペイセクが夫の仕事を理解し夫婦が一体化されていうといううるわしい成り行きも映画的真実に大きく反していて、要するに本作はオリバー・ストーンと同様相当程度にいかがわしい映画である。
空青く草は緑に燃える日よわが生命も赫奕と燃ゆ 蝶人
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