照る日曇る日第527回
読んでも読んでも終わらないので往生しましたが、なんのことはない、この分厚い本には谷崎、川端、三島、安部、司馬について書かれた「思い出の作家たち」、鴎外、子規、啄木、太宰などについて書かれた「日本の作家」、二葉亭四迷から大江健三郎までざっと49名の文学者をとりあげた「日本文学を読む」、加えて「私の日本文学遥遥」、「声の残り」の凡そ5冊の単行本が内蔵されていたのだから、読みでがあるなどという生易しいものではなかったのです。
そう書くといやいや読み続けていたと誤解されそうなので心配ですが、この元アメリカ人、現日本人翁が書いた日本文学と文学者についてのあれやこれやの思い出噺は、酷暑に打ち負かされた世捨て人の腐りかけの脳髄に旱天の慈雨の如く投下された揮発性のヘロインのごとき悦楽作用をもたらしてくれたのです。
因果は巡る風車、東奔西走日米合作回り灯籠の筆のすさびに、碧眼太郎冠者鬼院先生かく語りき。
明治21年鎌倉に遊んだ子規は、大雨の中頼朝の墓から八幡宮へ急ぐ途中で2度も喀血したこと。(これは家の近所の話なので生々しいな)
マリアカラスの「ルチア」を聴いた大江健三郎が、彼女の声は「女性のあらゆる可能性を集中したものだ」と断定したこと。(当たらずとも遠からず)
一度だけ市川の陋屋で会った永井荷風の「バートランドラッセルの優雅な英語に匹敵する美しい日本語」を聴いて驚嘆したこと。(ちと意外だなあ)
尾崎紅葉の「金色夜叉」は大愚作であるが「多情多恨」は紛れもない傑作であること。(さすがのご明察)
谷崎は漱石の「明暗」がうその組立からできていて、そこには作者の巧慧なる理知の働きがあるのみ、と喝破したこと。(これにはちと疑問)
荷風は「昔は良かった」というが、その昔の定義は時代と共に変わっていったこと。(しかり)
転向は、ある場合には自己保存の手段として必要であるばかりでなく、社会全体が要求することが多い。絶対に転向しない人に会うと場合によっては滑稽であり、場合によってはみじめであること。(しかりしかり)
親友の河上徹太郎が酔っ払って新橋の芸者の肩に自分の足を押しつけ、大声で『帰ろう』と叫んだのを見て断固絶交したこと。(これまた当然)
トルーマン・カポーティは、私がそれまでに会ったうちでもっとも不快かつ信用できない人物の一人であること。(真偽不明)
「豊饒の海」の取材で奈良桜井の大神神社に行った三島由紀夫が、近くの松を指差して「これは何の木ですか」と尋ね、その夜蛙の鳴き声を聴いた隣室の三島が「あれは何の声」とキーンに尋ねたこと。(三島は動植物に無感心な都会人だった)
川端康成が自殺したことを聞いた大岡昇平が「三島がノーベル賞をもらいさえすれば2人とも生きていたろう」と語ったこと。(さもありなん)
大江と三島がNYで連れだって高級玩具屋を訪れ、(恐らくあまりにも高価なので)三島が諦めた革製のサイのぬいぐるみを、大江が買ってしまったこと。(大人のくせにガキ大将みたい)
「次回は九月一日午前一〇時です」歯医者に告げられしその三ヶ月後の自分が見えない 蝶人
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