Wednesday, September 26, 2007

吉本隆明著「自著を語る」を読む

降っても照っても第57回

吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。

吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。

それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。

渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。

しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。

もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。

吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What?  いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。

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