Sunday, September 02, 2007

網野善彦著作集第10巻「海民の社会」を読む

降っても照っても第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語72回 

百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。

中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。

私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。

この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。

いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。

またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。

3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。

「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。

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