降っても照っても第58回
私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。
まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。
3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。
第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。
私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。
次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。
著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。
これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。
No comments:
Post a Comment