茫洋物見遊山記第65回&鎌倉ちょっと不思議な物語第245回
日毎に深まりゆく秋の日の昼下がり、相模湾の見える庭園に薔薇が咲き乱れる鎌倉文学館を再訪した。
芥川は明治25年に東京、久米はその前年に長野に生まれ帝大の英文科に学び、晩年の漱石に師事してともに作家を目指した親友同士であるところから、こういう特別企画展が開催されたらしい。
されど悲しいかな、私は久米の作品の一篇も読んだことがない。彼が河東碧梧桐の影響を受けて俳諧の道をめざしたが演劇の脚本や「破船」という漱石の娘との失恋をテーマにした私小説を書いたことも、今回の展覧会ではじめて知りました。
所詮は第二流の文学者なのであろうと決め込んで、残る芥川関連の出しものを眺めてみると、漱石が彼の「鼻」を激賞した書簡とか、初期の短編「羅生門」や晩年の「或阿呆の一生」などの生原稿がずらずら並んでいたが、いずれも本郷の森屋の青の縁取りのある原稿用紙で書かれている。これは久米正雄も同様で、いまはなきこの文房具屋謹製の用紙が当時の作家の人気を集めていたのだろう。
芥川は「唯ぼんやりとした不安」を理由に昭和二年七月24日に自殺した(火野葦平も同様)が、こんな抽象的な口実で人間が死ぬはずはない。漱石の後継者と自他ともに認められた彼の死因は、漱石のような長編がどうあがいても書けなかった、という作家的欠陥とそこからくる懊悩によるものに決まっている。
会場には妻の文に宛てた遺言状も展示してあった。これまた森屋の原稿用紙一枚を用いて、万年筆で全部で六項目(最後の項目は「読後焼棄せよ)書き連ねてあったが、驚くべきは「小穴に蘭の花を与えよ」などという呑気なその内容ではなく、眼鏡かルーペで見なければ到底判読できないほど顕微鏡的に細かく、几帳面に書かれたその文字の異様な小ささと限りなく狂気に近い繊細さである。
芥川の研ぎ澄まされたデリケートな感受性を如実に示すその筆跡は、明暗執筆当時に彼の師漱石が描き続けた水墨画の異様なまでに神経質な描線と瓜二つで、私は明治大正の日本文学を代表するこの二人の文学者の思いがけない生理的近親性を、改めて再確認させられたような気がしたのであった。
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