Thursday, December 22, 2011

五木寛之著「私訳歎異抄」を読んで

照る日曇る日第474回

浄土宗と浄土真宗はつくづく革命的な宗教だと思う。仏や悟りや成仏について自力であれこれ苦労してかんがえたり悩んだり難行に取り組んだりするひつようはごうもない。ただただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればどんな人間でも極楽往生できるというのだから。即身成仏をめざす真言宗や六根清浄をねがう天台、法華一乗の徒が怒り狂って朝廷に強訴したのもとうぜんだろう。

それまでの宗教がことごとく自力本願であり、近代以降も人間力の根幹は自己の主体性の涵養であったことをおもうと、この他力本願の思想の簡明さと平民性と思考放棄のラジカリズムにはつねに圧倒される。

されど南無阿弥陀仏だけでくよくよ悩まずに天国に行けたらいいけれど、そんな簡単なことで大丈夫なんだろうか、とかえって心配になってくるほどだ。さらに「悪人なほもつて往生をとぐ。いはんや善人をや。」ということになると、いささか行きすぎのようにも思えてくる。

だがさにあらず。親鸞にとってすべての人間はたまには善人にもなることができる悪人であったから、まずそうゆう普通の悪人がはやく現生を卒業して来世で仏になってはやく現世に戻ってきてくれれば、教祖としてはハッピーなのであった。

 ちなみに歎異抄とは親鸞の著作ではない。開祖没後三〇年、その教説をめぐって数多くの「異」説が登場して相争う状況を「歎」いた直弟子唯円のメモランダムなのである。


年の瀬やバーキンが呉れしリースを飾る 蝶人

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