ふあっちょん幻論第32回 メンズ漫録その10
日本人洋服の着始めは、旧幕府仏蘭西式歩兵の制服であった。その頃、人々はこれを「膝取りマンテル」などといった。御一新となり、岩倉公らの西洋視察(明治4-6年)後、文官の大礼服もでき、上級役人は洋服を着て馬に乗ることとなった。日本では洋服は役人と軍人が公式時に着るものとなった。
内務省の役人だった荷風の先考久一郎は、とてもダンディな人だった。明治12年現在だというのに10畳洋間にイス、テーブル、長椅子をすえつけ、ストーブをたいて、テーブルで家庭料理を楽しんだ。
役所から帰宅すると、彼は洋服を脱ぎ、エビ色のスモーキングジャケットに着替え、英国風パイプでお勉強に励んだ。また雨の日には、木の底をつけた長靴で出勤したという。
断腸亭主人いわく。「上野精養軒にいきて、わが家と同じ料理なりと奇異の思いしたり。」
鹿鳴館華やかなりし頃、荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここから洋服で幼稚園に通っていた。小学校時代は海軍服に半ズボン姿でそれは15、6歳まで続く。
「襟より後ろは肩を被うほどに広く折り返したカラーをつけ、幅広きリボンを胸元にて蝶結び。帽子は広いつば、鉢巻リボン。頭髪は西洋人のように長く刈り込みたり」
永井荷風はファッションはもちろんのこと、衣食住のすべてにおいてヤングジャパンの欧化文明の最凸端で生活していたことになる。
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけし白き髪 茫洋
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