ふあっちょん幻論第29回
明治5年11月12日、文武百官の大礼服は、正服は洋服、祭服だけは衣冠束帯と改められた。そしてこの決定を待っていたかのようにして、ちょうどこの年に岩倉使節団が海外に旅立つのである。
翌明治6年以降、明治天皇は死ぬまでのおよそ40年間洋服に身を包んでいたが、それには海外から帰朝したばかりの近代化論者の大久保利通の意向が強く働いていた。けれども明治から昭和のはじめまで一般大衆はビジネスシーンにおいて和服を着ることが多かった。和から洋への転換は、あくまでも天皇の権威を借りた上からの強制であることに留意する必要がある。
この転換がまだ中途半端であることをみてとった明治政府は、急遽「上滑りまま走り続ける洋化政策」を採用する。明治16年には日比谷に鹿鳴館が竣工。ここを拠点とした鹿鳴館外交を通じて治外法権と関税統制を撤廃し、不平等条約を改正しようとしたのが井上馨の狙いだった。
ちなみにこの失われた名建築の設計は英国の建築家ジョサイア・コンドルで、この「鹿鳴」の名は「詩経」から取っているが、これは井上馨夫人の武子(三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロインである元芸者朝子のモデル)の前夫中井弘の命名にかかる。中井はパリのムーランルージュのレビューを見て、京の「都踊り」を着想した才人でもあった。
明治18年と20年11月3日の天長節に、伊藤博文&梅子夫妻主宰の大晩餐会がここ鹿鳴館で開催されたことは、よくテレビドラマなのでも紹介されている。
国がおいらにも2万円くれるのか早くくれもっともっとおくれ 茫洋
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