Thursday, June 18, 2009

青木美智男著「日本文化の原型」(小学館日本の歴史別巻)を読んで

照る日曇る日第264回

日本文化の原型は普通は室町時代にできたと考えられているようですが、著者はそれを江戸時代に求めて、民衆の視座から見た文化、とりわけ衣食住の基礎の確立のありようを事実に即して、生活の現場に即して、実態的に見定めています。高踏的な歴史叙述を避けて下から目線の文化史に挑戦した意欲はおおいに買えます。

たとえば食の革命はまさしく江戸時代になされました。醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになったのです。味醂は江戸時代は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだと著者はいいます。

江戸時代の酢は主に相州中原(平塚市)で生産され、これが中原街道経由で江戸城に運ばれていたそうですが、江戸後期になると料理以外の需要、すなわち友禅染という絢爛豪華な絹の衣服が登場したために大量生産されるようになったそうです。酢には酢酸が3割ほど含まれており、これが友禅染の染色過程の定着剤として流用されたというのは初めて聞く話でした。絹の染色をいっそう効果的にするために出羽村山特産の紅花や阿波藍なども増産されることになりました。

わが国では平安・鎌倉・室町・戦国時代まで庶民の大半の衣服は苧麻(ちょま)でしたが、これは栽培から織り上げまでには大変な時間と手間を要し、そのために鎌倉・室町の女性は農耕に従事する余裕がなかったほどでした。そこへ登場したのが着心地も耐用性も汎用性も抜群の木綿です。戦国時代には兵衣、火縄などの軍事用に使われていたものが江戸時代に入ると急速に普及して大衆衣料の主流になりました。新品が不足したために全国に巨大な中古市場が形成され、幕府は大伝馬町の木綿問屋に独占販売権を与えて統制を図りました。幕府は武士には絹、農工商には木綿という繊維格差を押し付けることによって身分制度を固定化しようと企んだのです。

いっぽう最高級の絹織物、西陣織で身体を華美に彩ることは権力者やセレブ階級の最大の願望であり、ステータス・シンボルでありました。江戸初期の幕府は生野、石見の銀山や佐渡の金山で採掘された金や銀を代償にして中国やベトナム産の膨大な生糸や絹を買い付けた結果、かつての黄金の国ジパングはたちまち瓦礫の列島に変身してしまいました。

仕方なく幕府は銅や伊万里焼を輸出するとともに、正徳3年1713年、国内における絹生産体制の早期確立をめざすことになります。そしてその結果、信濃、上野桐生、下野足利、陸奥信夫・伊達など各地で西陣織のノウハウを移植した絹織物の産地が呱々の声を上げ、私の郷里に近い丹後半島の与謝郡でもあの有名な丹後縮緬が誕生したのです。

以上のように、ちょっとしたさわりだけでも、とても為になる1冊です。

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴 茫洋

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