Saturday, June 13, 2009

続 村上春樹著「1Q84」を読んで

照る日曇る日第263回


村上春樹がこの小説で描こうとしたのは、リトル・ピープルによって代表される眼には見えない陰険で邪悪な敵意、世界全体を覆う殺意と反感と無関心、冷酷なニヒリズムと問答無用の暴力の氾濫、狂信と原理主義の愚かさではないでしょうか。

そのために作者は、言葉という小さなチップを丁寧に並べて、壮大なドミノのタペストリーを編みました。言葉という砕片をひとつひとつ積み上げて、目のくらむような高さの虚構の大伽藍を構築しました。ほんの一押しで跡形もなく崩壊してしまう幻影の城を……。

これらは作者のおおぼら吹き、嘘八百の口から出まかせ、すなわち文学上のフィクションとは到底思えず、西欧のゴシック大聖堂に匹敵する精緻さと実在性を獲得するに至っており、作者の企画構想力と文章修飾力の膂力のほどをまざまざと示しています。とりわけ素晴らしいのは「王」と青豆との対決シーンで、その息をのむ展開はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の残照すら感じさせる白熱に燦然と輝いています。このくだりはかつてこの作者によって書かれた最良の数ページではないでしょうか。

この作家特有の細部の研磨、それからチェホフの「樺太物語」やそこに棲むギリヤーク人などの逸話に垣間見られる卓抜なユーモアとウイットも相変わらず健在で、私たち読者は、モノガタリの骨太のコンテキストから自由に逸脱して、心楽しい文学散歩を楽しむことが許されています。作者の空想と創造の一大所産であるスケルトンが時々念力不足で空中分解する懸念があることを思えば、本書の最大の魅力はむしろリフィルのディテールの充実にこそあるのかもしれません。

ところで、リトル・ピープルはジョージ・オウエルによって描かれたビッグブラザーを思わせるいわば「悪い存在」ですが、しかし彼らは本当に最後の最後まで悪役を務め、世界市民に害悪を及ぼし続けるのでしょうか。

その答えはイエスでもあればノーでもあるでしょう。なぜならリトル・ピープルとは、実は私たちの魂の奥底に潜む悪魔そのものだからなのです。私たちの内面ではリトル・ピープルとその反対勢力が絶えることなく食うか食われるかの闘争を繰り広げています。そして私たちの「内なる善」が「内なる悪」との戦いに敗北するとき、悪はますます増長して私たちの外部世界に躍り出て、百鬼夜行の大活躍を開始するでしょう。9・11以降その傾向はまさしくパンデミックなものとなりました。

私たちの内部分裂と内部での孤立無援の戦いは、同時に世界の分裂と戦いをもたらします。古くて新しい「万人の万人に対する闘争」の再開です。わが魂の骨肉の敵を私たち自身が退治しない限り、人間界も世界も、いずれは崩壊するのではないだろうか? 村上春樹はそんな焦燥に駆られてこの絶望と希望のメーセージを綴ったのではないでしょうか。

やがて善悪の相克はかろうじて相対化され、宇宙の彼方から聖なる声が朗々と高鳴る日が来るでしょう。「善から悪へ、悪から善へと御身らの輪廻は転生すべし。」
上下2巻1000頁を超えるこの長編小説を繰る中で、私がもっとも感嘆したのは、作者が引用している「平家物語」の「壇ノ浦の合戦」の朗読シーンでしたが、この小説の深部でひそかに唱えられているのは諸行無常の念仏なのかもしれません。 

万人の万人に対する戦いとく鎮まれと作家は祈る 茫洋

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 茫洋
 

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