Friday, June 05, 2009

高橋源一郎著「大人にはわからない日本文学史」を読んで

照る日曇る日第261回

文学の母は人間であり、人間が生きてきた社会ですから、その母体が地殻変動すれば文学のありかたも変わってしまいます。著者は最近のそんな文学のありようの変化を、パソコンのOSの転換にたとえて語っています。

近代小説の元祖である明治17年に刊行された円朝の「怪談牡丹灯籠」も漱石の「道草」も太宰の「津軽」も志賀の「暗夜行路」も、(一葉の「にごりえ」など数少ない例外はあっても)、「自然主義」「リアリズム」「自我の肯定と世界との闘争」「他者の不在」という牢固とした基本ソフトを駆使して書かれてきたのです。

けれども小説や芸術を取り囲む共同体の共同性自体が次第に変化した結果、このような古典的な3点セットで構成されたオペレーション・システムの耐用年数がいまや尽きかけているんだ、と著者は断言します。田山花袋が女弟子に去られてワンワン泣いたり、啄木が時代閉塞の現状を嘆いたりしたときに前提にしていた「私そのもの」の基盤である「コギト」がシロアリにやられて、いまや根こぎにされてしまったということなのでしょう。

だから見よ、最近では、小説の主体である「私」が消失してしまい、小説世界に過去も未来も、はじめもおわりもなく、ただのっぺらぼうな現在だけが即物的に描写される「非小説的小説」が登場してきたではないか、と述べて、中原昌也の「凶暴な放浪者」や前田司郎の「グレート生活アドベンチャー」のような、いまだ洛陽の紙価が定まらず、あまでうす氏などから激しく嘲笑されている作品群を俎上にのせるのです。

さうして、これらは過去の主流派OSウインドーを放棄して新しい汎用OSリナックスによって書かれた無私の小説、無意味の小説と言ってもよろしい。誰でも書けるし、どこも書き換え可能であり、まったく無意味で無価値な作品であると極言しようと思えばできるだろうが、これはもしかすると新たな共同体の登場を予感させる新たな文学のはじまりなのかもしれない。

とまでおごそかに予言されるのですが、その嘘ってほんと? 
しかし私が敬愛するほかならぬ高橋源一郎氏のおことばですから、千年経って「平成日本文学史」をえいやっと振り返ったなら「なるほどそういう事態だったんだね」、とほほえみながら総括できるかもしれませんね。もっともその頃には誰も生きてはいないけど(笑)。



   ♪大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎 茫洋

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