Sunday, June 14, 2009
阿仏尼の墓を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語第191回
夜もすがら涙もふみもかきあえず磯越す浪にひとり起きゐて
これは鎌倉時代に「十六夜日記」を書いた阿仏尼の歌ですが、私たちの時代ときわめて似通った近代的な心の動きを感じ取ることができます。
阿仏尼は夫が遺してくれた荘園の権利を求めて幕府に直訴するために、おんなひとりではるばる京から鎌倉まで下向してきます。そして以前このシリーズでもご紹介したように、極楽寺の近くの月影の谷で生活しながら、おりふし海岸に打ち寄せる波の音や松に吹き寄せる風の音に耳を傾けながら都の知人に文を送り、いっこうにはかどらない訴訟の進行に耐え忍んでいたのでしょう。
そんな阿仏尼の墓が極楽寺から遠く離れた英勝寺(ここはあの山吹の歌で有名な太田道灌邸であり現在は鎌倉唯一の尼寺)の傍らにあるのは意外な気もしますが、彼女の息子冷泉為相の墓がここからほど近い浄光明寺の山頂にあることを考えれば、もしかすると江戸時代に建立された現在の英勝寺の場所に、かつては別の寺院が建てられていて、阿仏尼はその晩年をそこで過ごして葬られたのではないでしょうか。
そう考えてわが枕頭の書「鎌倉廃寺事典」をおそるおそる開いてみますと現在の英勝寺の元は智岸寺であり、やはり尼寺であったと記されています。「鎌倉志」にも「智岸寺谷は英勝寺の境内なり」とあり、「古は寺ありけれども頽敗せり。近比まで地蔵堂のみありしが是も今はなし」と述べられています。そして智岸寺はかつては尼寺、駆け込み寺として知られていた東慶寺の隠居寺的役割を果たしていたそうなので、阿仏尼が浄光明寺ではなく智岸寺でその寂しい生涯を終えた可能性はかなりたかそうです。
ちなみに地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩は1684年当時すでに鶴岡八幡宮僧坊正覚院にあり、その後瑞泉寺に移ったことが確認されているので、私たちは瑞泉寺に行けば阿仏尼が拝んだ尊像に対面できるというわけです。
♪またしても「スイカ」の種は尽きにけり働き悪く金のなき日に 茫洋
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