茫洋広告戯評第5回
たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。
なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。
「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。
公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。
いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。
それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。
♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋
♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋
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