Sunday, January 22, 2012
「橋下主義を許すな!」を読んで
大阪市民の絶大な支持を受けて市長に就任した橋下氏の政治手法について内田樹、香山リカ、山口二郎氏などがこもごも批判しています。
私は橋下氏が府と市の経費の重複を無くしようとしていることには反対しませんが、教育に偏屈な政治的イデオロギーを持ちこんだり、旧軍隊的規律と上意下達の中央集権的介入を強行したり、市場競争や経済効率論理を導入して大阪府・市の教育基本条例を改訂しようとするような独裁的で夜郎自大な手法には反対です。
我々がこよなく愛するこの自由な国家ではいつでもどこでも誰でも自由な見解の表明を妨げられず、時の権力者に反対したりげんざいの国歌や国旗に異議を唱えたり起立を強制されても罰せられるはずがなく、気に喰わなければ黙って座っていることも許されますし、それを非国民だと罵る人こそが本来の意味の非国民なのです。
橋下氏がしようとしていることについて内田氏は、宇沢弘文氏の「教育=社会的共通資本論」を引き合いに出し、共同体の存立にかかわる自然環境、社会的インフラ、教育、医療、司法、行政に対する政治の中央集権的介入を強く戒めていますが、これはイデオロギーの左右を超えた常識というべきで、政権が交代する度に学校のカリキュラムや医療システムがころころ変わっては国民はたまったものではありません。
政権が交代しても物事が劇的に改革改善されないために、早くも民主党に幻滅してとっくの昔に政治生命が終焉したアホ馬鹿自民党への回帰を妄想したり橋下氏一派を軸とした新政治勢力に過大な期待を寄せたりするドンキホーテな人たちがいるようですが、民主政治というのは膨大な討議と時間と経費を蕩尽し、果てしない議論と辛気臭い交渉と不条理な妥協と紆余曲折を経ててやっとこさっとことおちつくところに落ち着く誰もが不平と不満を抱かざるを得ない超不完全なシステムだということが戦後60年以上経過してもまだ理解されていないようですね。
これに激怒したり愛想を尽かしておのれの主体的な思考を放棄して、ヒトラーもどきのチンピラに運命の下駄を預けたくなる気持ちも分かりますが、なに2年もすれば化けの皮がはがれるはず。ハシズムなどと慌てず騒がず放置しておけばよいのです。
不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 蝶人
Thursday, September 08, 2011
西川誠著「明治天皇の大日本帝国」を読んで
照る日曇る日第451回
講談社の天皇の歴史第7巻がいよいよ幕末を経て明治に突入しました。一身にして二生を経た父孝明天皇と同様、明治帝もまた朝廷の奥に巣食う繁文縟礼と神人一体祭政一致の魑魅魍魎の混沌に浮沈しながら、薩長の指導者、元老の補弼に導かれながら、みずからを近代化・西洋化していく。
幼くして宮中の保守的な侍補や儒家、女官の影響下で軟弱に育った頑迷な少年が、西郷、大久保、長じては伊藤博文が描いたグランドデザインに基づいてその怠惰で放恣な性格を矯正し、鉄漿白粉袴束帯の和装から軍服をまとった帝国の指導者へと変身していく姿は感動的ですらある。
川村海軍相の落ち度に対して西瓜を投げつけて叱咤する大西郷の英姿を目に焼き付けた若き日の明治帝が西南戦争で落命したこの最後の武人を追慕して政務を一時拒絶する姿も涙ぐましい。
しかしのもとで政治的人間として成熟した明治帝は、明治憲法が規定する元首として、その掣肘の元で内閣と議会の三角関係の安定正常化に腐心し、これを生涯に亘って巧みに制御することに成功し、あわせて「明治の精神」を文字通り体現したといえるだろう。
彼が生涯につくった御製はなんと九万三〇三二首のおおきに達するそうだが、これは彼が覇王の主たる用務としての文雅の道に忠実であったのではなく、新たに課せられた政務への取り組みの慰謝と代償行為であったのではないだろうか。
しかし明治帝と明治憲法の父とも称すべき伊藤博文は統帥権の独立と日露開戦、国家神道の跳梁を許し、朝鮮併合にあえて反対しなかったことで昭和天皇下の大日本帝国崩壊の素地を用意していたともいえよう。
資生堂パーラーで四千円のランチを食べました 蝶人
Saturday, July 16, 2011
藤井譲治著「天皇と天下人」を読んで
照る日曇る日 第445回
講談社から刊行されている天皇の歴史シリーズの第5巻であるが、ここでは戦国時代に我が国を天下統一に導いた三英傑と天皇の関係について述べられている。
己を天下人であり国王であり天皇以上の存在でありと自負していた織田信長は、一貫して朝廷とは距離を置き、彼にひたすら媚を売る正親町天皇を適当に利用しながら、基本的に無視していた。天皇と天皇制を見事なまでに小馬鹿にしていたのである。
信長は後継の秀吉、家康と違って、徹底的に朝廷の権威や秩序を無視して己の唯我独尊を貫こうとしたあたりがいっそ快い。
秀吉の交渉相手も信長と同じ正親町天皇であったが、同じ天下人とはいっても成り上がりの秀吉と信長ではなかなか対等という訳にもいかず、雲上人のご機嫌(天気というそうだ)を取り結びながら下から籠絡しようとする態度が印象的で、関白の位階欲しさに正親町にすり寄る秀吉の姿は醜い。
秀吉が信長と同様に朝廷を牛耳るようになるには御陽成天皇の就任を待たねばならなかった。しかし秀吉の死後彼が望んだ後継者を拒否し、彼が願った「新八幡」の神称を拒んだのは他ならぬ御陽成天皇であった。
前任者たちの対応を醒めた目で観察し、天皇および天皇制にもっとも致命的な打撃を与えたのは、やはりというか、さすがというか天下の知恵者徳川家康であった。彼は死の直前にみずからの発案で禁中並びに公家中諸法度を制定し、御陽成の後継者である御水尾天皇の権威と権力を完全に奪い取り、名実共に朝廷を武家の支配下に治めたのである。
こうしてつらつら眺めてみると、信長が搗き秀吉が捏ねた餅を家康がうまそうに頬張るという図式もあながち漫画ではないような気がしてくるから不思議である。恐らく三英傑のうちで最も優れた政治家は最後の者であったのであり、彼が主導して統治した256年間が、この国の民衆にとって最も幸福な時代であったのもむべなるかな、と言わずにはおれない。
だんだん好きな人が減って嫌いな奴が多くなる 蝶人
Saturday, June 04, 2011
関川夏央著「子規、最後の八年」を読んで
照る日曇る日第433回
近代日本語の建築とそれを通じての俳句と和歌の近代化に多くの功績を上げた子規について思う時、そのイメージの中心で浮遊しているのは根岸の子規庵である。短すぎた彼の晩年の暮らしと芸術の拠点はこの粗末な寓居であり、そこにくりのべられた六尺の病牀であった。
私が根岸の里の子規庵を訪れたのはもう二〇年以上も前になる。それはラブホテル街に囲繞された辻の奥に突然現れた。その狭い小さな日本家屋の六畳間には生々しい生活の臭いが漂っており、開け放たれた硝子戸の外には糸瓜がぶらさがり、緑の小庭の向こうには白い雲を浮かべた青空が広がっていた。
突然、「どちらからお見えですか?」と尋ねたのは、子規の母八重を思わせる老女であった。しかも彼女の傍らには子規の妹律を思わせる若い娘も座ってこちらを見つめている。私が湘南からやって来た居士の一ファンであることを伝えると、老婆はいきなり皺だらけの顔を私に寄せてきて子規の高弟たちの悪口を滔々と述べはじめた。
もちろん子規ではなく、どうやら鼠骨の遺族と思われる彼女は、当時既に東京都の管理所有化にあった子規庵になおも同居していて、たまに訪れる私のような子規ファンをつかまえて、子規のお陰で有名になった高弟たちが、その実いかに子規庵の保存に冷淡かつ怠慢であったかを縷々訴えていたのであった。しかし子規の最後の八年間のみならず「子規山脈」のその後を沈着冷静に伝える本書を読めば、老婆の恨み節になんの根拠もないことが良く分かる。
明治三五年に子規が死ぬと碧悟桐、虚子、左千夫、不折、鳴雪など一〇名は子規庵保存会を設立し、長く毎月一円の資金援助を提供するなどして遺族の生活と偉大な師の旧居を支えた。
本書によれば、旧友会の中心人物であった寒川鼠骨は、「仰臥慢録」など子規の遺稿を古書市場に横流ししたと子規の義孫の忠三郎から非難されたようだが、おそらく米軍機の空襲で焼失した子規庵の再建のために鼠骨が独断でやったことだろう。子規庵の隣に住んで遺族律と同居した寒川鼠骨の貢献は大であり、彼なくしてこのフィールド・オブ・ドリームスの現存はありえなかった。森鴎外が羨んだように、寒川鼠骨のような師匠思いの弟子を数多く輩出したことこそ、子規居士の偉大な人徳というべきだろう。
鼠骨のみならず虚子との複雑で微妙な人間関係、左千夫、節の弟子入りの経緯、在米の真之、在倫敦の漱石との屈折した交流などについても一歩踏み込んだ解釈を示し、とりわけ当時の緊迫した国際情勢との相関関係の中で子規の世界観と文学観を論じた本書は、21世紀の子規本の新たな規範となるに違いない。
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 子規
世の中に混ぜご飯ほど美味しいものなし三合を三人で食べる 茫洋
Sunday, April 17, 2011
吉川真司著「天皇の歴史02聖武天皇と仏都平城京」を読んで
照る日曇る日 第424回
いったん天智から天武に移行した王権が、文武、聖武、幸謙・称徳を経て光仁からその子桓武天皇に移った時点で、平城京は7大寺を拠点とする仏都に転化せしめられ、政治経済の拠点は長岡京を経て平安京に定着することになりました。
本書はさらに桓武以降の皇位が、平城、嵯峨、淳和、仁明に継承され、王権政治が崩壊して律令体制を基盤とする摂関政治へと転換されていくさまを分かりやすく記述しています。
私が特に興味深く読んだのは、平安京を開いた桓武天皇の事績です。自己の権威付けのために父方の天智系皇統を称揚した桓武は、今度は当時、「蕃人」視されていた百済系渡来氏族の出身である母方のイメージアップに取りかかります。
亡き母親和新笠に皇太后のおくりなを与え、交野を本拠とする百済一族に対して叙位を行い、「百済王らは朕の外戚なり」と宣言した桓武こそは、今も昔も本邦に根強く存在する朝鮮民族に対する故なき差別意識に対する史上はじめての公的挑戦者だったのではないでしょうか。
もっとも弥生時代に朝鮮半島から大量に移住してきた弥生人のDNAが私たち現日本人の血肉にどっぷり内蔵されていることを思えば、天皇桓武の賤民意識脱却の国策キャンペーンなど、はなから無意味であったわけですが。
この桜見せてあげたし二万人 茫洋