Saturday, June 04, 2011

関川夏央著「子規、最後の八年」を読んで


照る日曇る日第433

近代日本語の建築とそれを通じての俳句と和歌の近代化に多くの功績を上げた子規について思う時、そのイメージの中心で浮遊しているのは根岸の子規庵である。短すぎた彼の晩年の暮らしと芸術の拠点はこの粗末な寓居であり、そこにくりのべられた六尺の病であった。

私が根岸の里の子規庵を訪れたのはもう二〇年以上も前になる。それはラブホテル街に囲繞された辻の奥に突然現れた。その狭い小さな日本家屋の六畳間には生々しい生活の臭いが漂っており、開け放たれた硝子戸の外には糸瓜がぶらさがり、緑の小庭の向こうには白い雲を浮かべた青空が広がっていた。

突然、「どちらからお見えですか?」と尋ねたのは、子規の母八重を思わせる老女であった。しかも彼女の傍らには子規の妹律を思わせる若い娘も座ってこちらを見つめている。私が湘南からやって来た居士の一ファンであることを伝えると、老婆はいきなり皺だらけの顔を私に寄せてきて子規の高弟たちの悪口を滔々と述べはじめた。

もちろん子規ではなく、どうやら鼠骨の遺族と思われる彼女は、当時既に東京都の管理所有化にあった子規庵になおも同居していて、たまに訪れる私のような子規ファンをつかまえて、子規のお陰で有名になった高弟たちが、その実いかに子規庵の保存に冷淡かつ怠慢であったかを縷々訴えていたのであった。しかし子規の最後の八年間のみならず「子規山脈」のその後を沈着冷静に伝える本書を読めば、老婆の恨み節になんの根拠もないことが良く分かる。

明治三五年に子規が死ぬと碧悟桐、虚子、左千夫、不折、鳴雪など一〇名は子規庵保存会を設立し、長く毎月一円の資金援助を提供するなどして遺族の生活と偉大な師の旧居を支えた。

本書によれば、旧友会の中心人物であった寒川鼠骨は、「仰臥慢録」など子規の遺稿を古書市場に横流ししたと子規の義孫の忠三郎から非難されたようだが、おそらく米軍機の空襲で焼失した子規庵の再建のために鼠骨が独断でやったことだろう。子規庵の隣に住んで遺族律と同居した寒川鼠骨の貢献は大であり、彼なくしてこのフィールド・オブ・ドリームスの現存はありえなかった。森鴎外が羨んだように、寒川鼠骨のような師匠思いの弟子を数多く輩出したことこそ、子規居士の偉大な人徳というべきだろう。

鼠骨のみならず虚子との複雑で微妙な人間関係、左千夫、節の弟子入りの経緯、在米の真之、在倫敦の漱石との屈折した交流などについても一歩踏み込んだ解釈を示し、とりわけ当時の緊迫した国際情勢との相関関係の中で子規の世界観と文学観を論じた本書は、21世紀の子規本の新たな規範となるに違いない。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 子規

世の中に混ぜご飯ほど美味しいものなし三合を三人で食べる 茫洋

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