Monday, June 06, 2011

松山善三監督の「名もなく貧しく美しく」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.126

1961年に製作されたこの映画は、手話が大活躍する聾唖の夫婦の愛の物語で、薄幸の妻を高峰秀子、夫を小林桂樹が熱演して江湖の子女の紅涙を絞らずにはおかない所謂ひとつの感動巨篇には違いないだろう。

しかししかし、いくら実話にもとづくお話とはいえ、ラストで突然ヒロインが進行するトラックの下敷きにしてしまうのは、あまりにも可哀想すぎるし、物語的必然性がなさすぎる。もしこの監督が、この物語に内在するドラマの核心についてちゃんと理解していたら、彼女を殺さないで、もっとすぐれた障がい者の愛の物語を創造することができたに違いない。

ところで「名もなく貧しく美しく」という美しすぎるタイトルはいったい誰がつけたのだろう。おそらく映画会社の宣伝マンだと思うが、もし松山監督やスタッフがこれを障がい者のあるべき生き方だとかんちがいしていたとすれば、ちょっと問題だ。

多くの障がい者は、もとより健常者よりも辛苦に満ち満ちた生活を、健常者と同じように黙々と耐え忍びながら懸命に生きているだけなのに、「名もなく貧しく美しく」生きろなんて、余計なお世話だ。犬にでも喰われてしまえと思って鑑賞するに違いない。

ところがこの監督はなぜだか障がい者の生き方に対してこのように奇妙かつ独特の色眼鏡をつけて威儀を正して臨もうとするために、外界の敵意や反感や無理解や不条理な交通事故などの災厄を、次から次へ雨あられと降り注がなければ、彼らを代弁したり支援したり、彼らのけなげな純愛を浮き彫りにできないと勝手に考えているようだ。

そういうわざとらしい手続きや固定観念を取り払って、健常者の純愛を描くのと同じやり方で彼らを普通に描いたら、きっとこれより数層倍はましなまっとうな映画が誕生していたでしょう。下手な考え休むに似たり、とはこのことである。

鶯や全山アリアに聴き惚れて 茫洋

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