Monday, June 20, 2011

川本三郎著「マイ・バック・ページ」を読んで


  • 照る日曇る日第435

    著者が70年代に政治的な事件を起こしたことは知っていたが、それを本人の言葉で逐一綴られたものを読んだのは初めてだ。

    取材の過程で知り合った「それなりの思想犯」だと思った男が、朝霞自衛官殺害事件を引き起こした。警察はまだ犯人が誰かまったく分からず捜査中だが、自分は知っている。しかも事件後犯人に会い、インタビューまでした。普通の人間ならすぐ警察に通報すべきだが、自分は取材源の秘匿を不文律とするジャーナリストである。この場合ジャーナリストは犯人を通報すべきか否かというのが、当時著者が突きつけられたジレンマであった。

    著者は結局「証憑隠滅罪」で警察に逮捕され、新聞社を懲戒解雇されるのだが、私ならどうしたろうかと大いに考えさせられる。

    一週間は取材源の秘匿を盾に頑張った著者だったが、孤立無援になって己の弱さから戦いきれず、すべてを自白して潰れていくプロセスはじつに悲惨だが、また実に共感できる成り行きでもある。私が彼なら、滝田修と腕章を焼却してもらったU記者のみならず、もっと多くの仲間を警察に売ったに違いない。私は彼よりもっと弱いから。

    この事件が著者の人生を全部変えたことは言うを待たないが、私がわが意を得たのは、彼が「それ以来「私」を主語としてしか文章が書けなくなった」と告白しているくだりだ。

    それでなくとも、ふつうの教養ある士人なら、四十を過ぎれば「僕」と語り、書くことに年相応にためらいを覚えるはずだと思うのだが、五十、六十、否、九十になっても「僕、僕、僕」と連発している石原慎太郎、大江健三郎、吉田秀和のような不敵な面魂の含羞なき人々は、おそらく人生で蹉跌した経験がないボンボンのような無邪気な人であろう。村上春樹や村上龍も、死ぬまで「僕」であらう。ボクハソレダケデイヤンナル。

    文は人なり、というとき、もっともその人が現れるのは、「僕」か「私」か「あたし」か「おいら」であるように思われる。

    雀百まで僕、僕、僕、てめえに自信があっていですねえ 蝶人

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