照る日曇る日第158回
荘園の支配者は天皇家、貴族、寺社などの経済的基礎になってはいるが、その実態は現地の領主が年貢などを支配者に貢納する際の請負の単位であり、国家に規制された公的な行政単位でもあった。それゆえ最近ではこのような土地制度を、荘園制度ではなく、網野が提唱したように荘園公領制と呼ぶようになっている。
中世の人々は土地に縛られることなく、各地を旅行し、それが新天地の開発につながることもあり、「逃亡」さえもが日常的であった。ようやく院政時代に確立された初期の荘園公領制がこのような危機をはらんでいたために、田地、住居に百姓を安堵することが地頭などの中世権力の最初の1歩とならざるを得なかった。
宮廷の行事においては発声の「微音」と「高声」は明確に使い分けられていた。たとえば政始のさいに上卿の召しに同音称唯するとき、弁・少納言は微音、外記・史は高声で答えるのが常であった。高声は日常の世界や寺社の内部や仏前・宝前では禁じられ、忌避されたが、高声念仏による往生のように門前や市庭などの特定の場では、それが当然とされる場合もあった。
著者は、高声が往生のように仏の世界への道をひらくことになっていること、門前や市庭などが神仏の支配する聖なる場所であることを考えると、このようなケースでの高声は神仏の世界と俗界を媒介する役割を果たしていたのではないかと推察し、祭りや雨乞い、あるいは禁忌や集会などを村全体に知らせるときに発せられる「おらび声」が、神霊と交わる契機そのものであってそれゆえにタブーを伴っていたと指摘している。
オラオラ、オンドリャガアア~
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