♪遥かな昔、遠い所で第74回
―心は、すすがれて良心のとがめを去り、体は、清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。『へブル人への手紙10-22』
―霊魂のない体が死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。『ヤコブへの手紙』
母の言葉
今年も昨年のような暑い夏がやってきました。
しかし、朝露にぬれた、野あざみを、野菊、河原なでしこ、そして、つりがね人参など、私の好きな野の花々を、朝のジョギングの帰りの折々に摘んでくれた夫は、もう帰ってきません。
私の朝は七時の露台の草花の水やりから始まります。今朝も、お水をやりながら田町の坂を下りてくる夫のズックの足音を、口笛を、心待ちに待つのです。
思ってもみない日、突然、夫が帰って来ない人になってから、早や一年が経ちました。
一年経っても、まだ心のどこかに、夫の帰りを待っている自分に驚きます。
子供たちが四〇歳になるのですから、結婚して、それだけの歳月はたしかに経っているはずなのに、その長さが嘘のような気がします。
何か夫の記念になるものをと思いましたが、思いつかぬままに、先年丹陽教会発行の『丹陽』に書かせていただいた文章をお目にかけることにしました。
目立つことの嫌いな、自己主張をしない人でしたので、他にはメモはあっても自分のものとしては、書き残している唯一のものです。
その文章の中にやさしい故人を偲んでやっていただければ幸いに存じます。
一九八五年八月
暮れなずむ夕陽かはたまた朝焼けかわが心なる行き合いの空 茫洋
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