照る日曇る日第330回
マルクスは「ドイツイデオロギー」の中で、「古代が都市から出発したのに対して、中世は農村から出発した」と述べましたが、網野善彦氏の駆け足の精力的な生涯は、この有名なテーゼをあくなき文献調査と実証的研究の積み重ねを通じて、よしんば西欧の中世がそうであったとしても「我が国の中世はむしろ都市と都市的なものから出発した」と完全に逆転させるために蕩尽されたと言えるのかもしれません。
戦後間もなく日本共産党の過激な政治闘争に加担するなかで氏が1951年に書いた最初の学術論文「若狭における封建革命」と「封建制度とはなにか」(本巻に収録)では、当時のマルクス主義の公式を絶対化し、歴史の中で浮き沈みする民衆の個別具体的な存在と生活を完全に捨象する傾向が端的にあらわれていました。
こうした若書きを徹底的に自己批判し、あらゆる空虚なイデオリギーと決別して輻輳する現実のただなかに沈潜した氏は、中世荘園や荘園公領制の構造、職能民の生業と流通、列島の都市や海川山野に生きる百姓(ひゃくせい)のライフスタイルの実像を摘出する作業を通じて、列島の政治経済社会が14世紀終盤の中世前期で根本的に転換し、その構造的転換がつよく現在に及んでいることをあきらかにしながら、2004年2月に肺がんによってその試行の大成の道を余儀なく絶たれるまで、偉大な歴史学者としての本領を遺憾なく発揮し続けました。
ほとんど徒手空拳の試行錯誤を断行するなかから、氏はマルクスを疑い、石母田正、松本新八郎を疑い、「農民」を疑い、「封建制」を疑い、やがて「日本」そのものを疑い、「戦後」を疑い、「天皇」を疑うことになったのです。
学界のすべての既成の権威と秩序を疑い、世の常識のすべてを疑い尽くした人が不毛の荒野の上に構築した巨大な城塞を仰ぎ見ながら、あとに続く私たちがなすべきことは、この強固な城と構築者そのものをも徹底的に疑うことによって大胆に乗り越えていくことではないでしょうか。
♪己も世界も疑え疑えすべてを疑え 茫洋
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