Thursday, March 18, 2010

木村大作監督の「剱岳」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.27

新田次郎原作の山岳小説を、ベテラン映像キャメラマンが初めて監督しました。噂ではかなり過酷なロケだったそうで、特に雪山の登攀の際の滑落や猛烈な吹雪のシーンなどはほとんど命懸けの撮影だったのではないでしょうか。
かつて彼が森谷司郎監督・高倉健主演の「八甲田山」で手掛けた過酷な大自然と人間との闘争をここでもまたぞろ描こうとしているようです。

キャメラは剱岳とその周辺の春夏秋冬を美しくとらえ、大雲海の彼方にそびえる霊峰富士の姿など感嘆に値する映像を刻み、物語の最後では相争った陸軍測量部に属する主人公たちとそのライバルであった登山家たちの友愛に満ちたうるわしいエールの交換で映画のラストを盛り上げることに成功してはいますが、細部を子細に眺めるといくつもの欠点が目につき、この二時間を優に超える大作氏の大作の鑑賞をおおいに妨げています。

そのひとつが映像のセピア色の濁りを秘めたトーンです。物語が明治四〇年前後の設定なので、こういう懐かし風にまとめたのでしょうが、どうも被写体が曖昧模糊として醜くなり、見にくいことこのうえありません。この自称「撮影者」は、かつて黒沢が激賞しただけあってどんな映画でもピンだけはドオンピシャリ合っていますが、それと同時につねに画面を陰鬱かつ大仰なものに変質させてしまいます。要するに、彼の眼は濁り、彼の感性の根っこには図太くどんくさい体育会的なものが盤居していて、これが木村大作という撮影者の長所でもあれば短所でもあります。

例えば彼のキャメラは、黒沢の「用心棒」や深作の「極道の妻」たちなどでは、物語に内在する不穏な空気を醸成することに貢献して一定程度の成功を収めているのですが、高倉健が主演する「居酒屋兆次」、「駅」、「海峡」などではいうにいわれぬエグさをもたらし、溝口や成瀬や小津を好む、より映像の質に敏感な都会人たちが、劇場に足を運ぶことを視覚暴力的に阻止しているのです。

 では彼の映画監督としての初仕事はどうだったのでしょうか?
まず演出の手腕に関して大きなクエスチョンマークがつきます。あれほど苦労したはずの剱岳初登頂があんなにあっけなく描かれるとは! 前に触れた感動的なラストがそのあとで出てくるとはいえ、難攻不落の孤峰がこんなに簡単に登れるのなら誰も苦労はしないでしょう。

そのほかのシークエンスでも説明抜きで救難隊が登場したり、突然ベースキャンプに到着していたりと手前勝手な演出が目立ちます。どのカットを刻み、どのカットを残し、どの長さにするかという基本的な技術とセンスがないから、こういうみっともない仕儀になるのです。また普通のプロの監督や編集者なら、この題材をもっと効果的に二時間以内の長さで収めるに違いありません。

不慣れな監督を助けるべき池辺晋一郎の音楽も最悪です。映像がいくら剱岳の四季を描いているからといってヴィヴァルディの「四季」などのヴァイオリン協奏曲の連発はないでしょう。そして感動的なシーンにはバッハ。あまりにも安易な劇伴のやり方には憤りさえ覚えます。これでは音楽家の仕事ではなくBGM屋さんの仕事ではないでしょうか。あなたはわが国を代表する作曲家らしく、この驚異の映像に拮抗するだけのオリジナル音楽を創造して仙台フィルに演奏させるべきでした。

 最後にこの映画にかかわった全員のクレジットが「仲間に」というタイトルのもとで延々と流されますが、つねに出演者名を登場順やアルファベット順に並べているウディ・アレンならともかく、映画製作にかかわった人物やら出資者やもろもろの協力会社などを、監督・俳優・音楽・美術等の専門性や職能をいっさい明示せずに、いわば亜細亜的な一視同仁視してしまう古い体質の郷党意識には、さすがに超保守反動主義者の私といえども反発せざるをえません。

♪坂の上の風呂屋の下の道端に今年も咲きたりミモザの花が 茫洋

No comments: