照る日曇る日第331回
明治41年4月25日、思い出多き函館の街に別れを告げてからちょうど1450日目の明治45年4月13日、天才歌人石川啄木は、折しも八重桜が満開の東京小石川区久堅町の借家の貸間で、父と妻と友人若山牧水に見守られながら、あたら26歳の命を儚く散らして果てました。
その前月に死んだ母カツも、6月に生まれた次女房江も、妻節子も、長女京子も、みな結核で死んでいます。与謝野鉄幹晶子の「明星」への接近も、「自然主義」の取り込みも、偉大な小説家への夢の挫折も、大逆事件の衝撃を受けた社会主義思想の影響も、「一握の砂」の出版と名声も、突然の発病と無念の死も、すべてがたった1450日という短い時間と空間のなかでの生成だったことをおもうと、せめてあと10年の余命あらば、とその悔しさも一入です。
それはともかく、日本短歌史上に大きな足跡を遺した石川啄木の、余りにも短すぎた生涯とその芸術活動の軌跡を丁寧に追った本書は、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」くらいしか諳んじられない私にとって格好の解説書でした。
著者によればわが国の和歌革新運動の第1期は、佐佐木信綱、正岡子規、与謝野鉄幹晶子夫妻によって明治30年代に「自我の詩」をキーワードとして担われ、続く40年代の第2期において、第1期の代表選手である与謝野晶子の「熱情」を「平熱」に冷却して、新たな「生活の詩」を生みだしたのが石川啄木だというわけです。
啄木は「歌のいろいろ」で「忙しい生活の間に心に浮かんでは消えてゆく刹那刹那の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌というものは滅びない」と語っているそうですが、著者が要約する通り、「二度と帰ってこない命の1秒の、その刹那刹那を愛惜する心を、実人生となんらの間隔がない心持で歌うこと」こそ、この天才歌人の短歌観だったのでしょう。
さらに啄木は単なる生活派短歌の草分けであるだけでなく、昭和に入って渡辺順三が主導したプロレタリア短歌運動や前川佐美雄を代表者とするモダニズム短歌の源流でもあると著者は説き、その余波は、綿矢りさ、金原ひとみの小説の描写にまでも及んでいると説くのですが、
はたらけど/はたらけど/猶わが生活楽にならざり/ぢっと手を見る
こみ合える電車の隅に/ちぢこまる/ゆふべゆふべの我のいとしさ
「石川はふびんな奴だ。」/ときにかう自分で言いて/かなしみてみる。
空家に入り/煙草にみたることありき/あわれただ一人居たきばかりに
あたらしき心求めて/名も知らぬ/街など今日もさまよいて来ぬ
などの作品をほとほとと朗読してみると、確かにそういう形跡があるような気配もしてくるのでした。
啄木の遺言により土岐哀果の手で出版された歌集「悲しき玩具」は、啄木の言葉「歌は私の悲しい玩具である」から採られたそうですが、自在に創造することができた和歌を「へなぶり」と見下していた啄木の心根がかえって悲しみを誘います。
ちなみに「悲しき玩具」の巻頭におかれた啄木の生涯最後の歌は、次のようでした。
眼とづれど、/心にうかぶ何もなし。/さびしくも、また、眼をあけるかな。
♪もう二度と帰ることなきいまのいまをわが生の証とて歌にとどめむ 茫洋
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