Friday, November 06, 2009

小西甚一著 日本文藝史別巻「日本文学原論」を読んで

照る日曇る日第308回

理数系の学問と違って、私たちが日本文学を研究する際に、「何を対象にして、どのようにその研究を進めるのか」という問題はなかなかに難しく、明治以来幾星霜を経たわが国の国文学界においても、いまだに明確にされていないといっても過言ではないようです。

顧みれば我が国では文学の実証的・文献学的考証は盛んに行われてきて一定の評価をあげてはきたものの、歴史や社会的要因と区別された「文学自体の内在的な価値の研究」はなおざりにされてきました。

この880頁に及ぶ書物は、物理や数学の世界では古くから採用されている科学的な理論と手法を用いた文芸、文学の研究というものが、どうしてこれほど我が国では遅れてしまったのか、またそれを早急に確立するためにはどうしたらよいか、という課題をめぐって、「雅」と「俗」と「雅俗」の3つのカテゴリーで鮮やかに我が国の文学史をぶった斬ってみせた大著「日本文藝史」を著した国文学の泰斗が、最晩年に取り組み、ついに未完に終わった壮大な知的営為の総決算であると申せましょう。

著者は国文学のみならず広く古今東西の哲学や人文諸科学、物理、化学、数学などの歴史的文献や欧米諸科学を主導した研究者の代表的な管見を自由自在に引用、敷衍、解釈しながらあちこち道草を楽しみ、悠揚迫らずこの大きな課題に挑んでいます。

たとえば著者は、なぜ優れた芸術作品が私たちを深く感動させるのかという問いについてドイツの哲学者ハイデガーの1934年から36年頃の学説を縷々紐解いたあとで次のように解説しています。

1)日常的な次元では「隠れ」でしかない存在自体が、本来的な次元では、「隠れなさ」としての「真」であること。2)その「真」を正確に表現ないし理会するのが芸術的な「美」となること、3)そうした「真」や「美」に至るために日常次元からいっての「手荒さ」が不可欠なこと。(ハイデガーの講演「ヘルダーリンと詩の本質」参照)
つまり「隠れなさ」としての「真」を形象の中に確立することが芸術の本質で、それが達成されていないものが非芸術であり、その確率の度合いが低いものが浅薄な大衆文芸であるということになります。

しかし本書に登場するのは、ハイデガーだけではありません。プラトン、デカルト、カント、デユルタイ、フッサール、フロイト、ニュートン、リルケ、ゲーテ、世阿弥、芭蕉、西田幾太郎、朝永振一郎、シュライアマハー、インガルンデン、ガダマー、フライ、バシュラール、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ゲーデルなどの思索とその達成が次々に呼び出され、たとえば物理学における相対性原理や量子力学論、数学における不完全性定理の登場とニュー・クリティシズムにおける多元性・不確定性の創案が共時的に論じられるくだりではなにがなしに(こんな時こそ「ナニゲニ」というのでしょうか?)知的興奮を禁じ得ません。

英米仏独などの重厚な西欧思想に加えて江戸期以前の本邦固有の文化思想および中国、インドなど東洋の歴史的伝統を広く渉猟しながら独自の世界文学観を手中に収めたかにみえる著者がもっとも高く評価した思想家、それはほかならぬ「意識と本質」の著者井筒俊彦でした。

東洋的伝統の最高最良の理解者・継承者である2人の偉大な思想家が並び立つ本書の掉尾に、静かな感動をおぼえない読者はいないでしょう。



♪束の間の命の限りを文芸に捧げつくせり小西甚一 茫洋

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