遥かな昔、遠い所で 第86回
久しぶりに大学生の次男が帰宅して家族四人で食卓を囲んだ。
生まれた時から障碍のある長男のKが「Kちゃん、いい子? Kちゃん、いい子?」と何回も聞く。この問いかけにうんうんと肯定してやると、彼は深く安心するのである。
はじめのうちは「Kちゃん、いい子だよ」と答えていた私たちだったが、こんなくだらない問答を早く切り上げて食事に取り掛かろうとして、軽い気持ちで「Kちゃん、悪い子だよ」と私が言ってしまった。
えっ!と驚いたKの反応が面白かったので、次男もふざけて「Kちゃん、悪い子だよ」と言った。妻までも笑いながら「Kちゃん、悪い子」と言ってしまった。
長男はしばらく三人の顔を代わる代わる見つめていたが、やがてこれまで見たこともないような真剣な顔つきで「Kちゃん、悪い子?」とおずおず尋ねた。
調子に乗った私たちが、声を揃えて「Kちゃん、悪い子!」と答えたその時だった。突然彼の両頬から大粒の涙がまるでロタ島の驟雨のようにテーブルクロスの上におびただしく流れ落ちた。
それは真夏の正午だった。セミの声がみな死んだ。
私たちは息をのんでその涙を見つめていた。そうして無知で傲慢で無神経な大人がこの恐ろしく繊細な魂を傷つけてしまったことを激しく後悔したのであった。
♪霧の奥から現れ出たるは永遠 茫洋
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