Monday, November 02, 2009

第106回横須賀交響楽団定期演奏会を聴いて


♪音楽千夜一夜第89回

まずはシューベルトの「未完成」、次にワーグナーのタンホイザー序曲、最後にブラームスの第3番へ長調の交響曲というラインアップに惹かれて宵闇迫る横須賀までやってきました。

 相変わらずオーケストラは好調を維持し、へぼでダルなN響よりも生気あふれるアンサンブルを奏でていました。が、問題なのはこのオケの常任指揮者(特に名を秘す)の指揮そのものです。古来指揮者の役割は、音楽を開始すること、終えること、その中間部をうまく演奏すること、の3点だとされてきたわけですが、この夜は3つのうちの2つまでが十全に機能していなかったといわざるを得ません。

 この指揮者は、ブラームスの終楽章において、あの見事に書かれた終結部の音楽を音楽の内部において充実し切って終わらせることに失敗し、あろうことかアンコールのハンガリー舞曲第1番の咆哮を代置してなんとか「終わった」ことにするという体たらくでした。これではとてもプロの仕儀とは申せません。(もしかするとアマチュアかも)

ここで唐突ですが、指揮者をピッチャーにたとえてみましょう。普通の指揮者ならストレートをベースにスライダーやフォークやカーブなどを少なくとも2割か3割くらい交え、球種に加えてコースと緩急の変化をつけて打者(曲)と対決するのですが、あいにくこの投手の持ち球は平均135キロ程度の直球しかなく、時折恣意的かつ痙攣的にオケをかわいそうなくらいに恫喝して140キロ台後半の剛速球を投げ込むのです。

ただしコントロールは抜群でつねにど真ん中。「さあ、打ってくれ」とばかり腕も折れよと投げ込むのですが、野球(音楽)の醍醐味ってそんな単純なものでしょうか。

おそらくこの指揮者のカラーパレットには、元気や歓喜や軍隊ラッパやジンタの狂騒、元気はつらつオロナミンはあっても、優雅や抒情や哀愁や孤独や悲傷のひと刷毛もないのでしょう。もっと言い募れば、彼がこれまで生きてきた人生において、脳天に響くフォルテッシモにはなじんでいても、平々凡々たる人生の基底を流れる切実な喜怒哀楽、とりわけ都会の孤独な魂にひそりと語りかけるピアニッシモのはかない美しさなど歯牙にもかけてこなかったのでしょう。こんな単細胞な指導者に率いられた楽員こそいい迷惑です。

事実当夜シューベルトの2つの楽章、ブラームスの4つの楽章のテンポと音の強弱について格別の思い入れがあったとは思えず、あの有名なブラームスのポコ・アレグレットをあれくらい無味乾燥かつ無慈悲に演奏できることにわたしは恐怖と驚異すら覚えたほどでした。

再現芸術の演奏において、私たちは作曲者の生の実質と同時に、演奏者とりわけ指揮者のそれをも耳にしています。だからカザルスの「鳥の歌」に落涙するのです。うろんな生きざまが演奏のひとふしに出るから音楽は怖いのです。

スコアの音符を物理的な音響に変換しようとだけ考えるのではなくて、1828年のシューベルトがどのような絶望とはかない希望のなかでこのロ短調を書いたのか、そして1883年のブラームスがどのような恋に苦しんでいたのか、等々も考えてそれを演奏の解釈に反映し、その曲の背後に潜む作曲家の活きた心模様を聴衆に伝えることが指揮者に課せられた重要な使命ではないだろうか、と思わされた横須賀の貴重な一夜でした。

 ♪いまいちどカザルスの「鳥の歌」聴きたしと横須賀の海岸をさまよう夜 茫洋

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