Wednesday, November 24, 2010

アレクサンダー・ヴェルナー著「カルロス・クライバー下巻」を読んで

照る日曇る日 第388回

指揮者の仕事は3つある。ひとつは曲を正しく出発させること、次は曲を正しく進行させること、3つ目は正しく終わらせることであるが、いずれもことのほか難しい。

開始するや否や曲のテンポも、曲想も、解釈もほぼ決定されてしまう。ゆえに私たちは冒頭の数十小節でその演奏の良し悪しを理会できるし、曲が進行するにつれその判断はより確かなものになる。3つのうち2つまでもよろしからざる演奏が、どうして曲を正しく終了させることができるだろう。

では指揮者によるその正しい演奏とはなにか? 

それはスコアに忠実な音響の大群を鰯のような耳の観客に糞真面目に伝播することではない。そのスコアに込められた作曲家のヴィジョンを、彼に代わって零から再構築し、スコアに新たな生命を吹き込むことによって、観客の耳目を楽しませるだけでなく、その死せる魂を高揚させ、震撼させ、できうべくんば賦活させ、昇天させることにある。

ああ、この音楽を聴けてよかった! 生きてこの音楽を聴けるとはなんという喜びであろう!
と、心底から痛感させる指揮者(演奏家)だけが私のいわゆる正しい音楽を正しく演奏しているのであって、その余のもろもろはただいっときの座興であるにすぎない。

そのために指揮者は、あらかじめ全譜を読みぬいて彼固有の独創性に満ち満ちた音宇宙の全体を彼の脳裏に立ち上げ、未聞の脳内大演奏を試み、その真善美の気高さのまにまに実際の音響としてコンサートホールに再現しなければならない。

指揮者はこの一連の作業を完璧に遂行するために、ただ修練に修練を積み重ねるだけでなく、一期一会の演奏に全身全霊を傾け、命懸けの生命の跳躍を試みなければならない。また彼が事前に脳内に創造した壮麗なヴィジョンを、演奏しながらたえず放擲して、つねに前人未到の音楽表現の時空に向かって乾坤一擲の試行錯誤を繰り返さなければならない。

このようなついには実現不可能ともいうべき「正しい演奏」を、絶望に駆られながらも果敢にめざしつついくつかの奇跡的な成果を上げた指揮者がフルトヴェングラーであり、もう一人がその忠実な後継者としてのカルロス・クライバーであった。

上巻にひきつづいて2004年7月13日、スロヴェニアのコンシッツアで74歳の生涯を閉じた天才指揮者の業績を辿りながら、私の耳の奥では、彼がコンセルトヘボウ菅を指揮したベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章のアレグロ・ヴィヴァーテェが喨喨と鳴っていた。

私に音楽の醍醐味を教えてくれたカルロスの霊の安からんことを!

あえて付点を打たず音の泉を溢れさせたりクライバー 茫洋


屁の如き指揮者どもが今日もわれらの魂を汚辱している 茫洋

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