Wednesday, November 10, 2010

雑賀恵子著「快楽の効用」を読みながら

照る日曇る日 第384回

私の郷里の旧家の冬の朝餉はいつも芋粥で、七人の家族全員が長幼の順で鍋底に杓文字を突っ込んで米に溶解したとろとろの芋を飢えた獣のように奪い合うのだった。おやつなどはなく、毎日与えられるアルミ貨の一円を原資に駄菓子屋で壱枚のチュウイングガムを購ってさぶしい口を慰めるのだった。

小学時代の勉強机がみかん箱という貧乏な家に育った少年の最高の楽しみは、病気やけがをしたときにあてがわれる駅弁と砂糖だった。駅弁は何鹿郡の銘品であり、砂糖はグラニュー糖もしくは茶色い岩石のような形をした粗糖のかたまりで、その口腔に溶けいる絶妙な甘さが、三九度の高熱を忘れさせるのだった。薄い板ガムやひと匙の砂糖は、私のつらく平板な日常の一角を一瞬にして突き破る至高の嗜好品であったことは間違いない。

 また成人してから二七歳の新婚旅行で奈良ホテルに宿泊した記念すべき夜まで重度のニコチン中毒に苦しんだ私は、単なる口すさびであったはずの煙草が人生を破壊する猛毒であると体感させられたものだった。

 本書はこのように魔術的かつ麻薬的な効用を持つ砂糖や煙草やチョコレートなどの嗜好品を次々に俎上に載せ、その来歴や成分や産業社会的な役割や、われらの人生のさなかにおいてそれらがどのような意味、あるいは「無意味の意味」を持つのか、について、ある時は口腔で軽やかに弄びながらクールに、またある時は美しい眉を少しひそめながらアカデミックに、またあるときは夢見るサッフォーのように物憂げに歌うのである。

文武両道ならぬ文理両方面に該博な知識と教養を有する著者は、例えば煙草ひとつをとりあげても、それが恰好の気散じであるのみならず、戦時の強制収容所などでは迫りくる死の恐怖を一時的に宙づりする迫真的な紛らわしであり、男のロマンの象徴であり、アメリカ先住民にとっては宗教的な儀式の重要な道具であり、医薬品でもあったことどもを、ハワードホークスの映画『コンドル』や大岡昇平の『野火』などを自在に引用してゆるゆると語る。

よく「神は細部に宿る」というが、とかく正則よりも変則、メインよりはサブ、「三度の食事」よりも「三時のおやつ」のほうが「三時のあなた」や「三児の貴方」の真相を浮き彫りすることが多い。そしてその何よりの証拠が、“科学する女流詩人”によるこの最新作なのである。


今は昔烏瓜色の頬したる少女ありき 茫洋

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