照る日曇る日 第386回
シリーズ「小説フランス革命」の第6巻は、ヴァレンヌに脱走したルイ16世がパリに連れ戻されたあとの国民議会の迷走を描いています。
王の裏切りに激高する市民の怒りをよそにジャコバン・クラブの重鎮であるデュポール、ラメット、パルナーブの3人は、新たに議会右派のフイヤン派を結成して国王の罪を不問に付し、左派のロベスピエールたちと鋭く対決します。
そこでダントン、マラー、デムーラン、ラクロなどコルドリエ・クラブの支持者たちは、ヴァレンヌ事件を忘れるなという声明文を作成、その署名嘆願を求めてバスチーユからシャンドマルスまで行進したのですが、フイヤン派の要請にこたえた国民衛兵隊司令官のラ・ファイエットがその平和的なデモを銃弾で圧殺したために、左右の対立はいっそう深まっていくのです。
1791年に自由平等博愛の憲法が制定され、議会がいったん解散されたためにロベスピエールは故郷のアラスに戻るのですが、そこで彼が見たものはジャコバン・クラブの地方組織の保守化と貴族が指導者を占める軍隊の脆弱性でした。このままでは革命は終わってしまう。大きな危機感に押されたロベスピエールはパリにとって返します。やはり革命の起爆力を持つのは首都の市民しかいなかったのです。
そんなロベスピエールの元を訪れたのは、フイヤン派のアントワーヌ・パルナーブ。ブルジョア左派から王党派に転向していた当時の最高権力者は、相次ぐ政争に嫌気がさしてか故郷ドーフィネに帰ると政敵のロベスピエールに告白するのですが、この気持ちはよく分かります。政治的活動への離反は、おのれの志操の揺らぎや迫りくる死や暴力への恐怖だけでなく、おのれのどこかからやって来る心身の解体と第六感的警告の発動から引き起こされるのです。
政治から身を退いたはずのパルナーブでしたが、1792年の8月10日事件に関連して国王一家とのつながりを追及されて翌73年11月に断頭台の露と消えます。しかし本巻でくわしく紹介されるロベスピエールの当時の姿はけっして独裁者や極左冒険主義者のそれではありません。この時点ではまだ共和制すら唱えず、ジロンド党が主導する国外との革命戦争にも時期尚早と慎重論を吐く、自信のない中庸主義者ぶりが読者の興味をいたく惹くのです。
お母さん今日シャンプーしてくださいなとひげそりしてもらいながらいう息子 茫洋
No comments:
Post a Comment